最初から、そんなにたくさんのものはいらなかった。そもそも、受け止めるためのキャパシティもそんなになかったし、何しろ、ひとたび存在したものは必ず無くなってしまうと知っていたから。その痛みも苦しみも全て知っていたから。だから、最初から、そんなにたくさんのものが欲しいとは思わなかった。
それを彼は知っていたから、過多に与えようとはしなかった。求められる分だけを求められた時だけに、彼は与えてくれた。もしかしたらそれは、してくれたのではなく、それだけしかできなかったのかもしれない。お互い、一番大切なものは別のものだったから。彼に与えられるのは、それが限界で、もしかしたら彼にとっては過多だったのかもしれない。
今更になって考える。それが果たして必要だったのか、と。求めたのはどちらで、どちらが先にその手を放したのか、知る術はもうないけれど。きっと前者は彼でなく、後者こそが彼であった。其れは彼が望んでいたことだったのかもしれないし、もしかしたらむしろ望んでいたのはこちらだったのかもしれない。でもそれは、本当に必要なものだったのだろうか。与えた熱も、与えられた熱も、今となっては気持ち悪い感覚だけをこの身に残す。
――今となっては、好きだったのかさえも思い出すことはできない
「シン。いつまでそんなとこにいるつもり? 風邪ひくわよ」
不意に、光の中から聞こえた声にびくりと肩を震わせる。暖かな場所から聞こえてくる、あたたかな声。だのに、この心はざわめく。欲しいものはそこにはないと知っているかのように。
「すぐ戻るよ」
告げて、振り返る。満天の星空。さめざめとした月光。冷たく暗い宇宙。
「シン」
促す声に目を伏せ、足を動かす。彼女は知っているから急かす。恐怖に怯えるかのような瞳に小さな笑みを落としても、彼女の憂いは拭えない。この欲が消えてなくならない限り、は。
彼女は知っている。如何して自分がこんな夜更けに、じっと宇宙を眺めているかを。たったひとつ、自分が欲しているものを。知っていて、恐怖する。その叶わぬ願いを、自分が無理やりにでも叶えてしまわないかと、不安で。
「…こんなに、冷えて」
棘のある声に、けれど覇気はない。震える指先が、冷え切った頬に触れる。きつく寄せられた眉を軽く突くと、彼女は眼を見開いて、次いで小さく怒った。
「何すんのよ」
「面白い顔してたから」
「何ですって…?」
彼女が怒りを露わにする。少しだけ肩の力を抜いて。
そんな姿にこっそり安堵する。欲したのもを失うのは、もう沢山だ。
かつて、必要としたものはそんなに多くはない。誰もが当たり前のように享受する、当然だと思っている『必要最低限』。最低限であるはずなのに、決して最低限ではないもの。その意義を今更になって思い知る。
欲しいものがある。けれどそのもののためだけに、今持っている数少ない物を手放すことはできない。だから、唯一望むものも手に入らない。
――逢いたい
不可能だと、知っているけれど。
PR