少し湿った風が心地良い。闇が孕んだ静寂が小波の音に乱される。
「――、―――――」
断片的に零れるのは、遠く懐かしい故郷の歌。かすれた旋律は小波に紛れるほど微かで、誰の耳にも届きはしない。
ふと、琥珀の双眸を開く。直後ふわりと風が揺れた。背後に現れた気配に振り向くこともせず、ただ口を閉じる。
「何処の歌?」
普段他にあまり興味を示さない声が問いかけてくる。聴いていたのかとか、知ってどうするとか、いつもならば返すつれない言葉を呑みこんで、再び口を開く。零れ落ちるのは先程と同じ旋律。少しだけ音量を上げたそれを、風が背後へと運んでいく。
「…帝国の?」
「厳密に言えば違う。赤月帝国が興るよりずっと前、まだこの辺りが平原だった頃から伝わる民謡だ」
「ふぅん」
どこかつまらなそうに相槌を打って、彼は杖で軽く床を叩いた。カンという軽い音。続けろと催促されているのか。そう小さく苦笑して、三度旋律を奏でる。
「駈ける風よ、天高く舞い上がり、いつの日か我に落ちよ。その身を刃に変え傷つける時も、癒しを繰るその時も、我と共にここに在れ。何処へ行き荒ぼうとも、我のもとに舞い降りよ」
「嫌な歌」
自分で先を促したくせに、非難がましい声が背を押す。口元に苦笑を滲ませ、背後を振り返る。
闇の中ひっそりと佇む法衣を着た少年は、腕を組み再び杖で床を叩く。
「まるで、誰かに捨てられまいと縋りついているみたいだ」
「手厳しいな。確かに、お前の言う通りかもしれない。だが、俺は好きだよ。この歌が、旋律が」
「へぇ。君にも情緒を解する心があったんだ」
軽く目を見開いて、やがて小さく息を吐いた。
「ルック。お前は俺を何だと思っている」
「人の心を解さない冷血漢」
「ルック」
諌めるように言ってみても、当の本人は気にも留めない。徐々に勢力の増している解放軍の中、ここまで真正面から反発してくる輩は数少ない。その1人である、齢14,5の少年は憮然とした態で、こちらを半ば睨みつけてくる。
「…ともあれ、珍しいな。お前が俺のところに来るなんて」
「いったい誰が夜を切り裂く騒音をたてているのかと思ってね」
「それは悪かったな。お子様にはこの歌の高尚さが理解できないらしい」
不意に、鋭い風が吹き抜ける。頬に走るピリッとした痛み。確かめずとも、頬を伝う液体の感触で事態を把握。ムッと顔をしかめてみれば、どうしたのとでも言いたげに首を傾げる少年魔術師。
「…このこまっしゃくれたガキが」
「君と大して歳は変わらないよ」
「精神年齢の話をしてるんだ」
「君が随分と子供っぽいって話? それとも、老け過ぎで枯れてるって話?」
「お子様は早くお師匠様のところに帰って乳でも吸ってろって話だよ」
瞬間、ルックの顔に苦渋が滲む。それに数秒遅れて、何とも言えないどろどろとしたものに胸を焼かれて、顔を背けた。
「…悪い」
「気持ち悪い想像させないでよ…」
どちらの声にも覇気はなく、どこかで魔術師の塔に住まう主が青筋を立てる気配がした。空恐ろしい。
「…君は、繋ぎ止めて置きたい人でもいるの」
嫌な想像を打ち消す様に、ルックが言葉を投げてくる。その言葉に飛び乗って妄想を振り払い、さて、と悩む。そんな人間いるだろうかと。けれど気づいた。もう誰も残ってはいないのだと。
「大切なものほど、失くしてしまうものだ」
「……そう」
バツが悪そうに少年は顔を背ける。彼でも悪いと思う事があるらしい。そんな事実に苦笑しつつ、彼から視線を外し、再び虚空に浮かぶ月を仰ぐ。
「だが、そうだな。俺が望んで俺が手に入れたものが失われそうになったら、無様にも縋りついて引き留めて置くのかもしれない」
ルックは答えない。ただ、背に視線が戻されたことだけは解る。
「だから、お前がその対象になった時は覚悟しておくんだな」
振り返る。かち合った瞳の奥に明確な驚きを見つけて、笑う。
「ばっかじゃないの」
力いっぱい吐き出された悪態は、大した威力も無く。
「…僕は君にはなれない。いや、ある意味君を上回るのかもしれないな」
ルックは仮面を手にひとりごちて、月を仰いだ。この大気のどこかに、彼の魂は溶けているのだろうか。そんな、馬鹿みたいな空想。詰りあった日も、笑いあった日も、今となっては全て遠き昔の思い出と消えて、残ったのはどうしようもない空白を抱いた心と、世界への憎悪。
先に手を離したのは彼の方で、再び手を伸ばしてきたのも彼の方。そして、先に世界から消えたのも。まったく、何と自分勝手な男か。
「これは君の復讐なんかじゃない。けど、一欠片くらいは持っていってあげるよ。だから、全てが終わったらこの魂の粒子の一欠片を捕まえて、縋りついてみせてよ」
そして彼は、仮面をかぶる。
―――――――――
1時代の話を書くと、どうしても3ルックの話が書きたくなります。
私は3では坊は死んだ派(どんな派閥)なので、切なくなるけれど、その切なさが好きと言う異端。
もちろん甘いのも好きなのですが、最近は甘いのを書くと砂吐きそうになるので…。
歌は適当に作ったのですが、最終的にルックな感じがして思わず笑いました。
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