任務前の空き時間のことだった。出撃まで未だ十分時間があり、けれど訓練している程暇はない、中途半端な空き時間。僅かに感じた喉の渇きにつられるように食堂へと足をのばす、と、照明のともっていない部屋の中から誰かの声が聞こえた。微かな、途切れ途切れの音。低い声はどうやら男性のそれらしい。そこにいるのは誰かと思考を巡らせることはなかった。興味がなかった。自分には関係がない。そこに誰かがいようといまいと食堂に備え付けてある水を貰って喉を潤す、ただそれだけのことだったから。
自動で開閉するはずの扉は何故か少しだけ開いていて、だからこそ中からの声が聞こえたのかとひとり合点する。扉の横にあるパネルを操作して扉を開けようとしたが、パネルが全く反応しない。どうやら故障しているらしいと納得して、自力で開けるため扉に手をかけた。幸い扉自体はそれほど重みはなく少しの力を加えれば開けることはできる、が、ふと耳に届いた声が歌であることに気づいて、動きを止めた。
うろ覚えなのか時折詩がぼやけるけれど、それは確かに歌であるようだった。扉の隙間から伺い見ればよく知った姿が(そもそもこの艦の中にいるのだから顔見知りでない可能性の方が低いのだが)広い食堂の中、独りぽつりと座っていた。癖のある茶色の髪に隠れて、彼がいったいどんな顔をして歌っているのかは分からなかったけれど、何処となく近寄りがたい。何故、と問われてもきっと明確な答えは出せなかったが。
扉にかけていた手を下ろし、横の扉へと背を預ける。半重力の空間の中、己の黒髪がふわりと舞うのが視界の端に映った。
小さく聞こえていた声が歌だと気付いて、それを歌っているのがあの男だと知って、それでも尚ここに留まったのは単なる気まぐれだと自分に言い訳した。彼の低音が奏でる音楽はひどく心地よく感じて、自然と瞼が落ちる。子守唄というには抑揚が強いが、最近の流行歌かどうかは分からない。あまり町中を歩くことはないし、テレビで音楽番組を見ることもないからだ。自分と殆ど同じような生活をしている彼が、流行歌を諳んずる程耳にしているのかは知らない。そう、知らない。短くはないけれど浅い付き合いだ。彼が何を好み、何を厭い、何を思っているのかは知らない。
ただ刹那が思うに彼の声は喜びに満ちているわけではなく、だからとは言え哀しんでいるようでもない。その曲調が、歌詞が、決して明るいものではないのに。
瞳を開くと無機質な壁と床が見えた。それを冷たいと感じる程度には、彼の歌に浸ることはあたたかかった。
何を見つめるでもなくぼんやりとしていたら、歌は途切れていた。とん、と軽い音に振り返ると、手動で扉を開ける長身と目が合う。彼は特に驚いた様子もなく、手に持っていたボトルをこちらへと差し出した。反射的に受け取り確認すれば、ボトルの中には水が入っていた。立ち聞きしていたことを知られていたこともだが、ここへ来た目的までばれていたことに、実に複雑な心境になる。思わず眉間にしわを寄せれば、彼はただ苦笑。
「ほら、行くぞ」
優しげに目を細めてこちらの背を軽く押し、自身もまたブリーフィングルームへと足を向ける。その背を追うように(そういう体勢になることは些か不本意だった)体を動かす。視界いっぱいに映るのは広く、遠い背中だ。
「歌」
問うような呟くような言葉が口からこぼれていた。彼は「んー?」と間延びした曖昧な返事をして、次いで何故か笑った。
「昔よく聞いてたんだ。久々に思いだしたよ」
成程彼はその歌が好きだったのか。そう考えて、それを知ってどうなると自問する。そして自答する前に、刹那はロックオンの隣へと並んだ。背を預けることはあっても、その背を追うことはやはり、不本意だった。
後に聞いた。その歌は最期の時まで大切な人と一緒にいたい。そんな歌だったのだと。
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BGMはBUMPのゼロでした。
自分のニル刹の原点はこういう話なんだろうなと思います。
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