理由を問われた気がする。何度も何度も。その口で罵られた気もする。数えきれないほど繰り返し。だから決まって同じ言葉を返す。笑顔で。繰り返し。狂ったように。
「先に、俺を裏切ったのはお前だ」
癒えない傷を抱えて、血の涙を流す。
国である身ならば、裏切りには慣れている。とうの昔に。だけど、一度心から信頼を寄せた(そう仕向けたのは紛れもなくお前自身だ)相手に裏切られることが、これほどまで苦痛だとは想像もしなかった。もとより、心からの信頼関係を気付いたことなど一度もない。だからこそ、その罪は重いのだ。
一度は裏切られて逃亡を許したけれど、罠にかけて捕らえることは簡単だった。この胸に渦巻く狂おしいほどの熱が原動力になったのだ。悲哀と憎悪と憤怒の熱が、この身を動かした。
あの時のような薄暗い地下牢とは違って、真っ白な部屋に閉じ込めた。気が狂いそうなまでの白、白、白。あの時は色々と訊きたいことがあったけれど、今回は違う。これはただの私怨。だから、狂えばいい。狂って、狂って、狂って、赦しを乞うたとしても赦しはしない。
赦さない。絶対に、赦さない。お前が死んだとしても赦さない。
「なぁ、いつまで耐えるんだよ、お前。往生際、悪すぎんじゃねえの?」
「うっさいわ、ボケ! 誰がお前なんかに屈するか!」
聞きたいのはそんな言葉じゃないのに。物わかりの悪い男。鈍感で救えない男。あの日はあんなに愛を囁いて懐柔したくせに。道化師め。身勝手で最低な糞野郎。
首輪に繋がる鎖を引っ張って、身体を引き起こして間近に迫った唇に噛みついた。血の味がする。どんな美酒よりも美味いと感じる。頭がくらくらする。
不意に、がりっと嫌な音がした。舌先に走る鋭利な痛みに、考えるよりも前にその身体をベッドへと叩きつけた。小さく呻いた男を睨みつけて、口の端から伝い落ちる赤い滴を拭う。
堕ちない。全然、堕ちない。苛立たしい。早く壊れてしまえばいいのに。早く早くはやくはやくハヤクハヤクハヤクハヤク――!
「堕ちろよ。早く。壊れて狂って泣き叫べよ! ハヤク!!」
ぐっと拳を握りしめる。爪がやわらかい皮膚に食い込むほど強く。
男が鬱陶しそうに視線を上げた。だのにその瞳が驚いたように大きく見開かれて。あまりにも気に食わなかったから、頬骨が砕ける程強く殴りつけた。堕ちないならいっそ死んでしまえばいい。
ずっと地下室にいるわけではないから、当然外出もすれば遠出もする。だから嫌なところで嫌な男に会うことだってある。
「随分ご機嫌斜めだね、坊っちゃん」
「うっせぇよ。くたばれ、クソヒゲ。俺は今虫の居所が悪ぃんだ。死にたくなかったらとっとと失せろ」
「アントーニョのことでしょ?」
眉を吊り上げる。それに目ざとく気付いた男は、やっぱりなんて言葉を零して、一緒に重い息を吐きだした。
「あいつが消えたって、あいつんとこでは結構な騒ぎになってるから、もしかしたらとは思ったんだけどね」
「それがどうして俺の所為になんだよ? あんな腐れトマト」
「だってお前、あいつに裏切られたことまだ根に持ってるだろ? これだから人生経験が浅いお子様は――」
言葉を最後まで紡ぐ前に、足払いをかけて男の身体を地面に倒し、その上に馬乗りになって腰にさげていた短剣を突き付けた。何の感情もない瞳で見下ろせば、さすがのフランス男も顔をひきつらせる。
「ちょっ、たんま! たんま! あいつの所為で殺されるなんてごめんだよ!?」
「うっせぇんだよ、糞野郎。テメェ、何を知ってる」
「何って……」
「言え」
「わ、分かった分かった! 分かったからその物騒なもん下げてよ!」
珍しく心底焦った様子で叫ぶ男に、仕方なく短剣を収める。すると男はふぅと安堵の息を吐いて口を開いた。
「あの海戦の時にあいつをお前が捕虜にしたのはいいけど、何か巧く籠絡されて逃げられたんだろ? それをあいつに確認に行ったら、お前があいつの言葉を真に受けて自ら手錠外したなんて話だし、お兄さん本当に驚いちゃった――て、アーサー…?」
それ以上聞きたくなくて、とりあえず一発顔面に打ち込んで男から離れ背を向けて歩きだした。この地で用事があるのだが、今はもうどうでもよかった。フランス男の話で嫌な記憶を全部呼び起こしてしまって、気分が悪くて仕方がない。今すぐあの緑の瞳を潰してやりたくて堪らなかった。
どうかしていた。隙を見せて、突け入れられて、甘い言葉に騙された。未だに覚えている。忘れない。あの言葉。脳を焼くように甘い言葉。
『大丈夫。他の誰がお前を認めんでも、俺がおる。ずっと、お前と一緒におって、お前を愛したる』
「……っ!」
頭の中であの声がリフレインしたのと同時、強く壁を殴りつけていた。打ちつけた拳がじんじんと痛むけれど、それよりももっと胸が痛かった。焼き切れてしまいそうなほど。だから、それよりも早くあの男を壊さなければならない。そうしたらきっと――この傷も癒えるから。
その部屋に戻ると、男は虚ろな瞳をしていた。ぼんやりと何かを考えるように虚空を見つめている。
「とうとう、狂ったか」
くすりと笑って、男へと声をかけ、白いベッドへと歩み寄る。すると不意に、濁った瞳がこちらへと向けられて、背筋に悪寒が走った。まるで何も映していないかのような緑の瞳がひどくおそろしく感じたのだ。
「そないに、裏切られたんが苦しかったん?」
思いにも寄らない言葉だった。何をいまさらと言いかけて、言葉は喉に張り付いた。正面から見つめてくる瞳を、何故だか見ていられなくて目を逸らした。
「……狂ってこんなことするまで、俺を信じたん?」
「……………だまれ………」
「なあ、答えてや。アーサー」
「黙れ!」
咄嗟に懐の銃を抜いて、男の上に馬乗りになり、その額に銃口を押しつけた。歯がギリっと嫌な音を立てる。指を少し動かしただけで、この男の命を奪うことができる。それなのに、男はじぃとこちらを見上げ、かさついた唇を開く。
「引きいや」
「!?」
「殺したいんやろ? 俺を。憎くてたまらんで、赦されんくて、今もこうして銃口を向けとる。迷うことなんかあらへんよ。俺を殺したいんやったら、その引き金を引いたらいい。簡単なことやん」
「……っ」
「それとも何なん? 殺されへんの? 俺を。お前が?」
嘲笑うように男は口元を歪めた。どこか憐れみさえ含んだようなその声色に、手が震える。憤りに思考回路が侵される。頭の中が真っ赤に染まる。
「あれだけ赦さないとか殺すとか言うとったくせに、いざとなったら殺されへんの?」
腸が煮えくりかえるようだった。何よりも憤りを感じたのは、これだけのことを言われても引き金を引けない自分自身。殺せない。この男を。どうして。否。最初から答えはずっとそこにあって、見ないふりをしていただけ。
赦せないのは信じたからだ。その言葉を、その心を本気で信じたから、その分憎しみも怒りも止め処なく溢れだした。だから知っている。分かっている。己はそんな簡単なことに気付けないほど鈍感ではない。
あの日、あの時、この男は己を抱きこんで絆して脱獄するためだけに、嘘の言葉を吐き続けた。甘い言葉で惑わした。全部が全部嘘だった。それが分かったのは騙されているとも知らず、男の手錠を外して押し倒されてからだ。だからそれまではずっと信じていた。言動を全て信じていた。自分に手錠をかけて、ニヒルな笑みを浮かべて去って行った後姿を見送る間もずっと、夢なのではないかと疑うほど。
長らく何者にも深く心を許すことのなかった(仮にも)人間が、一度誰かに心を許したらどうなるのか。答えは単純だ。依存する。どれだけ1人で立っていると見せかけても、心はそこに置き去りにされたまま。だから、本当に赦せないのは、殺したいのは――アントーニョではない。
「……俺が、何よりも赦せないのは……殺したいと願っているのは……絆されて、騙されて、信じて、愛して、殺せない、俺自身だ」
腕が鉛のように重かった。少し動かすのも億劫だったが、それをぐっと引っ張り上げて、銃のグリップを強く握りしめたまま銃口をこめかみへと当てる。
「俺は、俺を裏切ったお前を赦せない。お前に裏切られた俺を赦せない。なら、これが最も合理的な結末だと思わないか? 『スペイン』」
笑った。笑みを浮かべた。心の底から、笑った。愉快だった。
そう、この胸を占めた感情は紛れもなく、愉悦だったのだ。
引き金を引く。迷いはない。目の前に迫る解放感に胸がざわめいた。
「Adios! España」
「待て――っ!」
音を、衝撃を、認識する前に意識はぷつりと途絶えた。
どさりと落ちて来た身体を抱きとめる。即死だ。当然だろう。至近距離でこめかみを撃ち抜いたのだから。
「あの時、お前を可哀そうな奴やと思ったんは、本当なんやで」
声が聞こえないことも知っている。死んだ。アーサーは死んだ。しかし、国が滅んだわけではない。またこの身が息を吹き返すのか、新しい個体がイングランドとして生じるのかは分からない。そんなこと、アントーニョの知った事ではない。それでも。
きっと何日も監禁されて頭がおかしくなったのだろう。自分は。アーサーとてそうだ。こんな日々を繰り返して、心が擦り減ってしまったのだろう。正常な判断を下せないほど。
「可哀そうなイングラテラ」
あの日言った言葉をもう一度繰り返す。その言葉に込められた想いが違うことを、アントーニョは自覚しない。
重い手錠を引きずるように腕を動かして、アーサーの身体をベッドへと引きずり下ろす。そしてその上に乗り上げて、ぬるく体温の残る唇に触れる。こんな風にキスを交わすのは、裏切る直前以来。もう何十年ぶりだろう。
アントーニョはアーサーの手から銃を奪い取る。旧式の銃は恐らく、あの海戦でアーサーが使っていたものだ。アンティークとまではいかないけれど、こんなものに縋りつくほど参っていたのだろうか。世界を手に入れんとするこの男が。
銃口を自分のこめかみに当てた。先程、目の前で死んだアーサーがそうしたように。最期の最後でアーサーは笑った。いったい何を考えていたのだろう。あの凶悪な男にしては、死に顔が穏やか過ぎて、別の意味で笑える。
「俺なんかを本気で信じて、愛したんやね。騙されているとも分からずに」
可哀そうなイングラテラ。
再び心の中で呟いて、アントーニョはそっと目を伏せるとトリガーに指をかける。脳裏によぎった愛しい人々の姿にごめんな、と呟いて、少しだけ指を曲げた。
――可哀そうなイングラテラ。お前があまりにもかわいそうだから、一緒に逝ってあげる
―――――――――――
本当は死ネタじゃなかったんだ、と言ったらいったい誰が信じてくれるのでしょう?
雰囲気重視です。こんな西英が好きなダメな奴です。
本当なら親分サイドも書くべきなのでしょうが、そういうのはあまり好きくないのでここでさらっと補足入れると、親分はイギを籠絡する時は何も思っていなかったけれど、復讐に監禁されてイギの激情(要するに恨みつらみ)を直で受けて自分がどれほど罪なことをしたのか自覚して(笑うとこ)、最終的にちょっと情が沸いた感じです。自分を愛して憎んで、狂って死んだ。浮かんだ情は憐れみだけじゃなかった。
いつも通りの薄暗さとダークさ加減。私絶対こういう話の方が(ほのぼのやギャグより)向いてる、と自覚したりしなかったり。
お粗末さまでした。
PR