帝国の最南端に位置する、辺境の地と呼ばれる場所に1人の旅人の姿があった。旅人にしては軽装で必要最低限のものしか身につけていないその男は、申し訳程度に整備された街道を只管南へと歩いていた。どこまでも続いているような荒野。街を出てから彼が目にしたものと言えば、高くそびえ立つ山々と荒れ果てた大地、そして廃墟となった村だった。帝国内では、先の街より南には殆ど人が住んでいないと噂されていた。身内が国境の南砦に配属になったのだと嘆く女の話を思い出しながら、旅人はただ南へと進む。
ふと、旅人の眼前に緑の山が見えた。暫く歩いてみるとそれが山ではなく広大な森であることに旅人は気付いた。気付けば荒野は途切れ、水平線の何処までも深い森が広がっている。旅人は森の前で立ち止まった。そして廃墟にひっそりと住んでいた老人の言葉を思い出した。
『森へ踏み入ってはならぬ。あの森は死の森。全ての命を喰らい尽くす恐ろしい森だ。命が惜しくば決して、森に足を踏み入れてはならぬ』
旅人は暫し逡巡し、けれど何事もなかったかのように歩みを再開した。真っ直ぐ森へと入っていった。旅人は思った。殺せるものなら殺してみるがいい。その方がいっそ、と。
今まで見たこともないような植物が生い茂る森は薄暗かった。あちこちの木々に巻きつく刺のある蔦はどこか邪悪な雰囲気を纏っており、成程死の森と呼ばれるだけの貫録はある。それでも旅人は臆せず歩き続けた。あるいは、臆していたがそのことに気づいていないだけだったのかもしれない。
道の無い道を歩き続けた旅人は、やがて木々の切れ間から抜けだした。漸く森が途切れたのかと思ったのも束の間、少し開けた空間はけれどまだ森の一部だった。旅人は足を止める。その空間の中央に煌々と輝く多角形の物体を見つけたからだ。
それは一見、淡い色に輝く水晶、あるいはクリスタルのように見えた。それが時折見つけられるような、ただの小さな水晶であったなら、旅人は意に介さず傍を通りすぎていたことだろう。しかしどうしたことか、その水晶は旅人よりも大きな代物で、人一人くらいがすっぽり入りこんでしまえる程のものだった。そしてその中に、己の目を疑うのでなければ、旅人は一人の少年の姿を見た。
「これは……」
旅人は唖然として水晶を見上げた。世に不思議は多けれど、ここまで不可思議な物体を見たのは初めてだった。その水晶は不可思議ではあるが神秘的で、自然と旅人は水晶へと足を向けた。一歩一歩近づく度に、水晶の輝きが増していくような気さえする。旅人が水晶の目前に迫った時には、手を日よけ代わりに使わなければ前を見れない程の眩しさだった。
「何だ…これは……」
呟き、旅人は水晶に手を触れた。冷たく硬い感触。見た目通りだと旅人が感じた次の瞬間、水晶の表面がどくんと脈打った。旅人は瞠目した。生きていると感じたのだ。この水晶は生きている、と。
『旅人よ。遠き地より訪れた、罪人よ』
頭の中にぐわんと声が響いた。旅人は叫びそうになったが、喉がからからに乾いて声がへばりついてしまった。ただ、驚愕の言葉の形に口を開いたまま、水晶を見つめる。
『この森を抜けたくば、我が願いを聞き届けよ』
「ね…がい……?」
漸く絞り出した声はかすれていた。だが、その問いに答えは返されず、水晶は徐々に光を失っていった。水晶が輝きを失い、木々の合間から覘いていた太陽が水晶の表面をきらりと撫でた瞬間、水晶がぐにゃりと歪み、見る見るうちに解けだした。水のような液体に変化した水晶は瞬く間に地へと流れ落ちていく。そして、水晶の中に閉じ込められていた少年の体が支えを失ってぐらりと傾ぐ。
「!!」
反射的に水晶越しに見た時よりも随分と小さな体を抱きとめる。先程の声はこの少年のものだろうか。
『旅人よ』
声が再び頭の中に響く。少年は未だ目を閉じたまま唇も動いてはいない。少年は動いていない。まるで、死んでいるかのように。
しかし、声は告げた。
『旅人よ、そのものを殺せ』
「は!? なんなんだ、それは…!」
『5日の猶予を与える。その間にそのものを殺せば、そなたを森より解放してやろう』
意味の分からない言葉に、尚も旅人が声を上げようとしたその時、目の前の光景がぐしゃりと歪んだ。否、歪んだのは目の前だけではない。旅人を取り巻く空間そのものが歪んだのだ。
「な、何だ!?」
旅人は自分の声が不可解にひしゃげたのが分かった。そして無意識に少年の体をしっかりと抱きとめたまま、意識がぷっつりと切れた。
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