手を繋いで歩いた。誰かとそうやって触れ合うこともそうだが、手を引いて歩くという行為は旅人にとっては酷く懐かしく、それ以上に恥ずかしかった。その程度で恥ずかしがるなど生娘でもあるまいし、と自分を叱咤したけれど感情とは理屈で割り切れるものではない。自分よりも一回り以上小さな手を引いて、足元の砂の煩わしい感触さえ忘れて、旅人は浜辺に向かって歩いていた。
不思議なことに、少年はそれを嫌がらなかった。そのことが何よりも旅人を驚かせた。そして同時に手を離す理由を失くしてしまった。
旅人の足にしてみれば十歩足らず。ものの十数秒のその時間が、旅人にとっては永遠に思える程長い時間だった。決して苦痛だったわけではない。それとは殆ど真逆の感情に染められて、旅人はただ目を伏せた。心地よい時間なのに、居心地が悪い。
濡れ鼠と形容しても差し障りない程濡れた2人は、とりあえず地図に示されている港町へ向けて歩き始めた。流石にその頃には自然と手も離していて、熱の引いた手は濡れていることも相まって妙に冷たい。
砂浜が切れた所に少し小高い丘があった。今まで歩いて来た場所を見通せるようなその丘の上に、ぽつんとログハウスが建っていた。
こんな場所に建っているわりには綺麗に整えられたログハウスは、恐らく誰かの住居だろう。雲行きも怪しくなってきており、港町まで後どれくらいの距離かも分からない(地図上では一応距離がある)ので、少し休まさせてはもらえないだろうかと、思案した。ちらりと後ろを窺うと少年の顔色は大して悪いわけではない。それでも全身海水に浸した事実は変わりない。旅人はログハウスの扉を叩くことに決めた。
「少しここで休ませてもらおう」
少年に断りを入れて、扉を叩く。中でがさごそと物音がした後、ぎぃと軋んだ音を立てて恐る恐る扉は開いた。現れたのは小柄な男。歳は旅人より一回りほど上といったところか。やや飛び出した目は血走りぎょろぎょろと舐めるように旅人と少年を見つめる。
「すみません。旅の者なのですが、ご覧の通り水浸しで。よろしければ服が乾くまでお邪魔させてはもらえないでしょうか」
「…………かまいませんよ。ヒヒ」
絵本に出てくるような老魔法使いにも似た風貌からは予想もつかない程甲高い声だった。少したじろいだ旅人の後ろで、少年が訝しそうに眉間にしわを刻み込む。その頭を軽く小突いて、もう一度礼を言って部屋に入った。
「もうすぐ雨が降り出しましょう。止むまで休んでいかれるとよろしい」
「それはまた、ありがとうございます」
通された部屋は外見に比べ広く見えた。部屋を区切る壁は最低限しかなく、全ての部屋が吹き抜けになっている。その代わりに家を支える柱は旅人と同じかそれ以上に太い。リビングらしき部屋に通された2人は、服を脱ぎ、家主の指示に従って濡れた服をロープにつるして干した。
少年には旅人のコートをかぶせ、旅人自身は家主の厚意で家主自身の服を借りて着ることになった。
寒がりだという家主はこの季節でもまだ暖炉に火を灯しており、特に体を冷やしているらしい少年には丁度いいようだった。少年は暖炉の前で、どこか猫を思わせるような格好で座っている。その近くの椅子に腰を下ろしていた旅人の前に、不意に湯気を上げるカップが差し出される。
「ホットコーヒーです。カラダあたたまるとおもいましょうよ」
「ありがとうございます」
素直に礼を言って受け取る。同じように受け取った少年の姿を見て、家主は目をぎらぎらと輝かせた。それが少し、気味が悪い。嫌な感覚が背を駆けるのを感じながら、旅人はカップへと口をつけた。コーヒーは喉を焼くように熱く、いくら体が冷えているとはいえこれは酷い。風味も何もあったものではない。しかし、厚意で差し出されたものにもんくを言えるわけもなく、旅人はやや呑みこむようにコーヒーを流し込んだ。
「御兄弟であられますか?」
「いえ……少し縁があって共に旅を、して、」
倦怠感が体を包む。視界が回る。酷い眠気が、体を、襲って。
手から滑り落ちたマグカップが音を立てて割れて、旅人は漸く気付いた。
「すい…みん…やく……」
体が落ちる。意識が引きずられる。暗い闇に堕ちる間際、少年の大きく見開かれた赤い瞳が、見えた。
* *
遠いところで声がする。
「お前様の、姿見覚えがあるでしょうあります」
「……………」
ぼんやりとした視界。いつもより低い。かすみがかった世界。
「ワタシにこの力を与えたモリのコドモ。お前はそれであろうでしょう」
「……………」
ヒヒ。甲高い笑い声。耳をつんざくような、不快な音。
たじろぐことも、恐れることもしなかった。ただ、胸を渦巻いていたのは不安だった。生きている。まだ生きている。だけど、このまま死んでしまうかもしれない。
「お前様を殺したことで、ワタシは力を手に入れた!モリを解明する力を。ヒヒ。あれはとても役立ったです。お前たちが持っていた地図も、ワタシがその力によって描いたもの。ヒヒヒヒ」
音が五月蠅い。目の前の醜悪なものが煩わしい。危険だと分かる。いくらなんでも悟る。この気持ち悪いものが淹れたコーヒーを呑んでこいつは倒れてしまった。恐らく眠りへ誘う何かが入っていたのだ。もしかしたらもっと悪い毒かもしれない。人を昏倒させてそのまま死へ至るような。森にはそういう植物がいくつかあった。
ダメだ。そんなことを考えている暇はない。今すぐこの窮地を脱しなければならない。だが、どうする。この男を担いで逃げるのは無理だ。重すぎる。いくらなんでもこの醜悪な者の足でも追いつかれてしまうだろう。なら、どうすればいい。どう、すれば。
「もう一度お前を殺して差し上げることで、ヒヒ、どうでしょう。どうなるでしょう。更なる力を恩恵を、その加護を、寵愛を、わたくしめは賜ることができるのでありましょうかでしょうか」
ゆらり、とソレが動く。その体から感じるのは懐かしくも厭わしい森の力。歯噛みする。消えたはずなのに、死滅したわけではない。こうやってまた、牙を剥く。
どこから取り出したのかソレの手には刃の大きな鉈が握られていた。ギリっと奥歯がなる。この矮小な体でも、前にある限りは後の男の体に傷はつけさせない。
どうにかしなければならない。どうしても。この窮地を脱する。この男と2人、ソレの手から逃れなければならない。どうしても。
――どうしても?
そう。どうしてもだ。
――それは何故?
死にたくないからだ。この男と2人、果てを目指すと決めた。だからここで死にたくない。まだ、2人で旅を続けたい。こんな、森の力にとり憑かれた奴に道を阻まれて堪るものか。
ふと、思いだした。まだ対抗手段が残っている。それは、背に庇う男の持ち物。今はこのコートの中に入っている。使い方なんて分からない。だけど、これを使えばソレを止められるはずだ。
コートの内側についているポケットへ手を突っ込む。ずしりとした重み。識っている。これの使い方を、識っている。
懐から取り出して、真っ直ぐソレへと向ける。ソレが少し怯む。次いで、口元が歪んで、あの厭な音が響いた。
「ワタクシを殺そうとなさるのでしょうか。あの時のオマエは人形のように自身の死を受け入れたでありますよ?」
「そんな奴は知らない。俺は生きる」
セーフティを外す。出来る。出来るはずだ。
――そうして旅人は、それが少年の意識であることを知った
* *
かくして銃声は轟くことはなかった。旅人の持つ銃にサプレッサーが取り付けられていたわけではない。ただ、少年がトリガーを引けなかっただけのこと。
「……!」
少年が驚いたように旅人を振り返る。旅人はそれに笑って返し、動揺する少年の手から銃を抜き取った。
「ななななぜ!!あの薬の効果は……!」
「…結局、お前よりも俺の方が森の加護を受けてるってことだ」
皮肉っぽく旅人は笑い、少年よりもしっかりと、家主に銃口を突き付けた。本当ならばもうこれ以上、この手を血で濡らしたくはなかった。
あの時、睡眠薬で眠りに落ちた時、旅人は最悪の可能性を覚悟した。それを救ったのは奇しくも旅人の中にまだその力の欠片を残していた森の意思であり、どういう原理かそれにより、旅人は少年の意識を覗き見する格好になってしまった。表に出さない子どもだから分からないことだらけだったのに、『旅人と共に生きたい』と強く願う様がまざまざと伝わって来て、旅人はトリガーを引く覚悟をした。
結局はエゴなのだ。この子どもの手を汚したくないと思うのも。それでも、その魂に触れてしまったから、旅人はトリガーを引いた。家主が避ける隙を与えず、ただの一撃で黄泉の国へと誘う。
旅人は家主に借りていた上着を脱ぎ捨て、亡骸の上へとかぶせた。見方を変えればこの男もまた森による被害者なのだろう。彼自身はそんなこと微塵も思ってはいないだろうが。
短い時間だったので服はまだ乾いてはいなかったが、遺体とここにいるのも気味が悪い。旅人はロープを下ろし服を外し、少年の分を彼に渡し、自身もまた着替えた。
「どうして」
憮然とした面持ちで少年は問うてくる。何が『どうして』なのか。旅人にはそれが何とはなしに理解できて、未だ湿った黒髪に指を差し込んだ。犬でも撫でるかのようにわしゃわしゃとその頭をかき乱して、その口元に浮かんだのは自嘲にも似た笑み。少年がその意味に気づくことは恐らくないだろう。
だから旅人は何も答えなかった。
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