港町に着いたのは、あの小屋を出てから数時間後のことだった。案の定雨に降られびしょぬれになってしまった2人は、宿にチェックインするなり湯浴みをし、旅人は少年を部屋に残し綺麗に晴れた夕暮れの中、港へと歩いて行った。
想像以上に栄えていた港は、幸いなことに日に何度か隣国への定期便が出ているようだった。何と、帝都に一番近い北の港への便も出ているという。鳩が豆鉄砲を喰らった顔、ではないが似たような心境になった旅人は少々苦々しく思いながらも、翌日朝一番のチケットを二枚手配した。
おしゃべりな売り子は勝手に色々なことをしゃべった。ここの港町が何処の国にも属さない町であること。北の港への船は帝都に近いこともあり、厳しい検査を通過しなければ乗れないこと。独立しているからこそ、この港にはあらゆる国から人がやって来ること。
あまり実の無い話の中で、旅人が特に興味を持ったのはこの港町から南砦の間の地形が変わることを、町人は皆当然のことと受け止めていることだった。何でも、この辺り――町から砦を超えて滅びた村があった辺りまで――はずっと森に覆われていたらしい。中でも特に港町付近は、森があった当初も地形が変わることで有名であり、同時に森の中でも特に危険な場所だといわれていた。何故地形が変わるのか。その理由は誰も知らなかったが、最近現れた地図職人が言うには、あれは森があり余った力を発散させているのだということらしい。それは奇しくも森の意思が旅人に伝えたのと同じ言葉だった。
地図職人。考えるまでもなく、それは旅人が数時間前に殺した男のことだろう。本人が地図をつくっていると言ったのだから間違いはない。彼は変化する地形を読み取る力を持っていたのだと、森の意思が旅人の意識に語りかけた。
旅人はあくまで朗らかに笑い、売り子の手からチケットを受け取り、その場を後にした。
苦々しい思いを抱えたまま宿に戻る。東の大陸から団体が来たという宿屋は人でにぎわい、あいにくシングルの部屋がひとつしか空いていなかった。2人には小さなベッドではあるが、ベッドの上で寝れるだけマシというものだ。
旅人が部屋に入ると、少年はじぃと旅人を見つめてきた。不思議に思い首を傾げれば、意を決したように少年は口を開く。
「お前のことを知りたい」
会話が成立したのは両の手であまるほど。そんな少年の口からこぼれた意外すぎる言葉に旅人は呆気にとられ、目をまるくしてまじまじと少年を見詰めた。居心地悪そうにしていた少年は眉間にしわを刻みこむ。
「お前は俺のことを知っているようだが、俺はお前のことを知らない」
どこか不貞腐れたようなものいいに、可愛いところもあるじゃないかとつい思ってしまった旅人は、そんな内心をひた隠しにして、ベッドの空いたスペースへと腰を下ろす。
「俺の話なんて聞いても、面白くないと思うぜ」
「いい」
きっぱり、いい、と言われてしまうと少し困る。旅人は頬をかりかりとかいて、結局白旗を挙げた。
「何が訊きたいんだ?」
「お前のこと」
「俺のことなぁ……んー……俺が育ったのは小さな村だった。仕事つったら畑仕事ばかりだったが、あいにく俺には合わなくてな。なら軍人にでもなれって親に言われて、そのまま帝都の軍学校に入った。で、そこで何年か訓練を受けて、軍人になった。で、色々あって軍を辞めて旅に出た。こんな感じでいいか?」
旅人の言葉に少年はこくりと頷く。ちらりと窺い見ると少年は旅人を見てはいなかった。少しくすんだ白いシーツをただ黙って見下ろしている。多分まだ聞きたいのだろうな、と勝手に思いこんだ旅人は、話を続ける。旅人自身は望まずしてとは言え勝手に少年の身の上を知ってしまっているのだから、これはある意味等価交換だ。
「俺は軍にいた頃、人を殺した。帝国の人口に比べたら大したことのない人数だった。大勢の命を護るためにという大義名分を掲げて、俺は彼らを殺した。それは俺にとってはあまりにも多くの人だった。だから俺は旅に出た。贖罪のために」
「……死ぬことが贖罪?」
旅人は驚いて少年を振り返った。今や伏せられていた瞳は真っ直ぐ旅人の双眸を射抜いていた。
「あの小屋でお前が倒れている時、何かを介して俺はお前の魂に触れた気がした。驚いた。俺を生かしたのはお前なのに、お前はあまりにも強く死ぬことを望んでいた」
あの時、魂に触れたのは自分だけではなかったのだと、その時旅人は初めて気づいた。考えてみれば当然のことだ。触れるということは、自分にも相手にも作用すること。手と手が触れればお互いにお互いの手の感触が伝わる。あの時触れたのが魂であるのなら、少年もまた旅人のそれに触れてたのだ。
途端に恥ずかしく感じた。強く生きたいと願う少年に対して、彼の言う通り死にたいという願望に包まれた自身の心が。魂の一番外側で感じられるほど強い感情だったという事実が。
不意に、少年の手が旅人の手に触れた。視線はまだ、逸らせないまま。
「俺はまだ、お前といたいと思う。俺に生きるという道を与えてくれたのはお前だ。たとえそれが、森の意思によるものだったとしても」
「知って、いたのか?まだ森の意思が残っていることを?」
驚く旅人に少年は静かに頷いた。
「お前と旅を始めてから少しずつ、俺は森に取り込まれてからのことを思い出した。森との契約により、ヒトが何度も俺を殺したことも、お前に殺すように言ったことも。そしてお前の魂に触れた時、お前の中にあるソレが酷く懐かしいものだと感じた。ソレが森の意思だということも、お前の口を通して森が言葉を紡いだことも、分かった」
「…………………」
「森とお前の契約は俺を生かすことだ。違うか?」
全てを見透かすような瞳に、声に、旅人はただ首を振ることしかできなかった。
弁解をしなければならないと思った。確かに、きっかけを作ったのは森だった。余計なことをとも思った。それでも、あの冷たい海の中で、2人で果てまで行こうと誓ったのは紛れもない、旅人自身の意思だった。どうしてだかは分からない。分からないがしかし、どうしても、それだけは誤解してほしくなかった。
「それでもお前と旅をしたいと思ったのは、俺だ」
ふ、と少年の表情がやわらぐ。それは些細な変化だった。他人には分からない程のこと。けれど旅人には、少年が本当に心の底から嬉しそうに笑ったように見えたのだ。見ているこちらが切なく感じるほど。
旅人は重ねられた手を取って強く握りしめた。決して、離してはならない。離すものかと強く強く誓った。
つい数日前まで、少年がいようがいまいが関係ないと思っていた自分が嘘のようだった。
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