部屋が空いていなかったことに対するお詫びということで宿屋で腹いっぱいの朝食を平らげた2人は、市で必要なものを買い足しそのまま港へと向かった。既に船の準備は万端なようで、後は出航を時間を待つばかりだとはしゃぐ受付の青年にチケットを渡し、乗船する。
程なくして船は出航した。見る見るうちに陸を離れていく様子を、少年は甲板で興味深そうに眺めていた。ずっと森の傍で暮らしていた少年は、船そのものを見ることが初めてだという。
「何故これは水の上に浮いているんだ?」
「浮いてるんじゃねぇよ。俺たちの立っている丁度下辺りにでかい木製の脚があって、それで海底の上を歩いているんだ」
「成程」
旅人の言葉に、少年は神妙に頷いた。
「……いや、冗談だからな?」
旅人の言葉に、少年は軽蔑のまなざしを向けた。
船乗り曰く海は穏やかで、この調子だと予定通り3、4日で東の大陸に着くらしい。目的地である港町は東の大陸の玄関口でもあり、たいそう栄えているという。きっと少年はおろか旅人自身もまた見たことがないようなもので溢れているのだろう。年甲斐もなく少し胸がざわつく。
けれど、少年の方がもっとそわそわしていた。今まで小さな村の小さな小屋の中で生きてきた(と、少年が昨日自分で言っていた)少年にとって、海も船も他の大陸も、彼の閉ざされた世界を塗り替える。見たことがない物で溢れる世界、というものはどれほど心躍るものなのだろう。想像して、旅人は思わずにやけてしまう。さぞかし楽しいだろうと思うと、何故だか嬉しくて仕方がないのだ。
今までずっと、死を求めて旅をしていた。帝都から南砦を抜け、他の大陸に渡るということは、それこそ命がけだ。あえて自ら茨の道を行き、その道中で死したならそれもまた運命なのだろうと思っていた。けれどその中で少年と出会い、いつしか旅人にとって彼を生かすことが旅の目的となってしまった。かつて多くの命を奪った自分が、たったひとつの命を生かすことができたなら、と、思ったのだ。そんなこと、少年には口が裂けても言えないが。
何時間もじっと甲板にいた少年を半ば引きずるように船室へと連れ込んだ。興味があるのは大変結構だが長時間あんな場所にいては熱射病にでもなりかねない。
皇帝から賜ったあり余る路銀を叩いて、旅人は個室を一室借りていた。旅人だけなら下の船倉で雑魚寝でもよかったのだが、まだ人に慣れていない少年はそうもいくまいとの配慮からのことだった。少々過保護すぎる気もしたが、焦る必要はない。時間はあるのだ。じっくり慣れさせてやればいい。
「少し休んだら釣りでもするか」
「釣り?」
「まさか釣りも知らないとは言わないよな?」
少年は首を振った。村の近くに流れる川で釣りができることは話として聞いたことがあるらしい。
「なら、見たことはないのか」
「ああ」
「やってみるか?」
笑いかけてやればこくりと頷く。そういうところは年相応だと言えなくもない。
「まぁ釣れるかどうかも分からないけどな。待ってろ、船長に頼んで釣竿を貸してもらってくる」
「貸してもらえるものなのか?」
「多分な」
だからちょっと待ってろよ、と言い残して、旅人は船室を出た。
近くにいた船員に訊ねると、船長は今頃船尾で釣り糸を垂らしているだろうとのことで、多分釣竿も貸してもらえるだろうとのこと。若い人が釣りに興味を持つことを、あの人は喜ぶからなぁと旅人の背をばしばしと叩いて快活に笑っていた。
船員に言われた通り船尾に行くと、立派な髭を生やした船長が、のんびり釣り糸を垂らしていた。船長と他愛無い言葉を交わし、釣竿をふたつ貸してはもらえないだろうかと訊けば、船長は目を輝かせて快諾した。いろははワシが教えてやるからどんと任せておけとのお言葉も頂き、旅人は意気揚々と船室へと戻った。
がちゃりとノブを回し部屋に入る。すると、旅人の表情が一変した。
「なっ!?」
息を呑む。目の前の光景が信じられなかった。
「…………」
対する少年は無言で、どこか諦めたような表情で、旅人を見上げる。
質素なベッドに腰を下ろしていた少年の体は淡い光に包まれていた。この数日間で不思議体験は数々こなしてきた旅人ではある。その異常な状態が森の力に起因するものであることはすぐに分かった。だが、分からないのはどうして今この局面で、ということである。
ここは海上。森が根を伸ばすことのできない、つまり森の力が及ばない場所。この船に乗った時点で、少年も旅人も森から解放されたはずなのだ。現に、旅人はもう森の意思を感じとることができない。
「何が起こって……」
呆然と旅人は呟いた。先程までの高揚感はごっそりと抜け落ち、ひたひたと迫る何かの足音が聞こえるような気がした。
「………俺が森に行ったのは何百年も前のことだった」
「それとこれに何の関係があるんだ……!」
「関係ないわけがない。俺の体は森の力によって保たれていた。だから森の力が及ばない場所で、俺は生きられない」
淡々と抑揚なく少年は告げた。よく見れば、少年の手や足は所々透けて見えた。まるで彼の言葉が全て真実であると証明するかのように。少年の体は淡い光を放って消えて行っていた。
「何で、何で今更そんなことを!それが分かっていたら、あの地を離れなかった!!」
旅人は頭(かぶり)を振った。けれどそれに少年はただ困ったような顔をする。
「気付いたのはつい先程だ。森の聲が聞こえた。還っておいで、と言っていた」
「ふざけんな!森はお前を生かせと俺に言ったんじゃないのかよ!!」
大股で狭い部屋を横切り、少年の腕を掴んだ。が、指先は何の感触も感じることはなく、空を切る。途端に、行き場のない憤りが胸にせり上がって来た。こんなことになるのなら、彼を連れて旅に出ようとも思わなかった。
生きようと決意した少年を、こんな風に『殺す』ことが当初の契約の履行だなんて認めることはできない。森はこの子の生を望んだのではなかったのか。
「ちっくしょう……何でだよ……お前…お前は、これからじゃねぇか」
旅人は膝を折った。最早立っているだけの気力はなかった。
旅人は諦めてしまっていた。もう無理なのだと理解してしまった。諦めてしまった。旅人は決して理想主義者ではなく、哀しいまでに現実主義者だった。だが今程、そんな自分に激し苛立ちを感じることもない。
「一緒に旅、するんだろう?世界の果てに、行くんだろ」
「…………ああ」
「なのに、どうしてこんな所でお前が消えなくちゃらないんだよ!!」
激情を拳に込めて、少年の座るベッドへと振り下ろした。鈍い音がしてベッドが少しだけ軋む。旅人の持つ力なんてその程度のものだ。目の前の少年1人、生かすことが出来ない。
今ならば、神でも悪魔にでも祈ろう。ただこの子が消えずに済むのなら何を差し出したって構わない。その時、旅人の頭に妙案が浮かんだ。
「………そうだ。体ならここにある。体がないって言うのなら、俺の体を使えばいい!」
まだ少年の体は消えていない。それはつまり、この場所ではまだ森の力が及ぶということだ。その力を用いて、この身に彼の魂だけ移し替えることができたなら、少年は生きられる。そう、少年、は。
「そうしたらお前はどうなる!ひとつの体にふたつの魂は収まらない。俺はそれをよく知っている」
血を吐くような声だった。かつて、森の意思をその身に受けいれる決意をした少年は、その意味を旅人以上に深く理解していたのだ。それが、旅人を殺して自分だけが生きる残る道だということを。
「俺のことなんてどうでもいい!所詮薄汚れた罪人の魂だ。俺はお前さえ生きてくれたなら――」
「ふざけるな!!」
張りあげられた声を、荒げられた語調を、彼の口から聞くのは初めてだった。
旅人は呆然と少年を見上げる。酷く辛そうな顔をしていた。今にも泣きだしそうに見えた。ああ、この子もこんな風に泣くのかと頭の片隅で思った。
「俺に生きたいと思わせたのはお前だ!そのお前が易々と生きることを諦めるな!!」
細い肩を大きく上下させて、一度言葉を切り、少年は手を伸ばした。ひたり。冷たい指先が旅人の頬に触れる。ぽたり、と、床に落ちたのはどちらの涙だったのだろう。
「俺は、お前と生きたかった……!」
こんな風に、強く、想われているとは思わなかった。独りよがりの感情でいいと思っていた。エゴイストという嘲笑も甘んじて受け入れようと思っていた。それなのに、報われて、いたのだろうか。一方通行の思いではなかったのか。
触れられた指先に少し力がこもる。だのに、痛いとは微塵も感じなかった。感じることが、できなくなってしまっていたのだ。視界にきらきらと光の粒子が映る。
「俺だって……お前と生きたい。本当に、そう、思ったんだ……刹那」
旅人は自分と比べて随分小さな体をかき抱いた。本当に小さな体だ。それでいて薄っぺらい。頼りない。一緒に旅をしてきたくせに、隣を歩く子どもの矮小さにさえ、旅人は気付かずにいたのだ。
こつん、と額同士がぶつかる。少しの間閉じていた目を開けば、焦点が合わない程すぐ近くに少年の顔があった。もうすぐ消えてしまうというのに、今までで一番近くにこの子を感じる。そのことが、おかしかった。
くしゃりと少年の顔が歪む。
「…ロックオン……」
初めて呼ばれた名前は、血に汚れた名前だ。嗚呼だからこれは罰なのだろうかと思ったが、そんな考えは一瞬の後に打ち消す。そんな簡単な言葉で終わらせたくなかった。この身は確かに罰を受けるに値する罪を犯したが、その罪の代償をこの子どもが払うのはお門違いだ。
「俺はお前と、生きたい」
それが彼の最後の言葉だった。吐息がかかる程近くにあった2人の唇が触れ合う間際、少年の体を構成していた光の粒子は霧散した。
「……っ、」
旅人が嗚咽を噛み殺した頃にはもう、少年の姿はおろか、小さな光さえ、もうどこにもなかった。
++
その3日後、旅人は独り異国の地に足を下ろした。
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