サラジアス共和国の西にある港町カラレアは活気がある街だ。共和国の西からやって来る者たちの玄関口である街は海の荒くれ者たちを筆頭に、商人や旅人、旅行客等で溢れかえっている。そんな街の中でも一際人が多い場所、それがこの辺りの地主であるアラドが経営する酒場である。海の幸を贅沢に使った食事の数々や、様々な国々から取り寄せた酒が人を呼び、店内は常に喧騒に包まれていた。忙しそうに走り回る看板娘を一目見たくてやって来る輩も多い。
そんな酒場の丁度裏手に、同じ街にあるとは思えない程寂れた古い酒場があった。昔からの常連客と、懐具合が寂しい者、騒がしい場所が嫌いな天邪鬼が主な利用客である。
店の入口から一番離れたカウンター席に、一人の旅人の姿があった。癖のある茶髪に艶はなく、碧の瞳は虚ろでどんよりと濁っていた。男はただ独り、誰かと言葉をかわすこともなく黙々と酒をあおっている。
「お前さんは、いつまで飲むんだ」
「……いいだろう。金は払ってるんだ」
だからこそ店主は困っていた。この妙に羽振りの良い客は、一週間ほど前にふらりと現れた。最初の頃はそこそこ言葉を交わした。曰く、ここから西にある大陸から船でやって来たとのこと。独り旅かと訊けば酷く苦い顔をした。それが訊いてはならないことだと、この店を継いで長い男にはすぐに分かった。
港には色んな人間が来る。夢を追いかける若者。冨を求める商人。恋人との駆け落ちを決意したカップル。絶望に暮れた求道者。
「仕事でもしてみる気はないのかい?お前さん、そこそこ腕は立つんだろう?」
旅人がコートの内ポケットに拳銃を隠し持っていることには、一昨日に気付いた。今まであまり気にも留めていなかったが、そろそろ店仕舞いをしようかという頃合いに、彼はそれを取り出して愛おしそうにその銃身を撫でていたのだ。まるで何かを思いだすかのように。
「……働く理由がない。心配するな。金が尽きたらこねぇよ」
「そういうことを言ってるんじゃない。お前さん最近鏡を見たか?随分酷い顔をしてるぞ。まるで亡霊みたいだ」
「亡霊……はっ、そりゃいい」
店主の軽口を鼻で笑って、旅人はまたグラスを傾ける。すぐに空になった器をテーブルに叩きつければ、物音を聞いた客たちがきょろきょろと周囲に視線をめぐらした。
「……なあ、おやっさんよ」
「ん?」
「あんた、人を殺したことはあるか」
ぴくりと店主の眉がつり上がる。不快感を露わしたのでも、警戒心を示したのでもない。この旅人の口からそんな話がでるとは思いにもよらなかったのだ。
「俺は生まれてこの方この稼業でね。殴ったことはあっても、殺したことはないな」
「……なら、人を殺した人間の贖罪の仕方を知ってるか?」
旅人は虚ろな瞳で空になったグラスを眺める。恐らく彼は人を殺したのだろう。そうでなければそんな話はするまい。尤も、彼が被害者である可能性も捨てきれないが。ここは国境を兼ねた港町である。そういった輩も珍しくはないのだ。
「俺は死以外の方法を知らない。だから死を求めて彷徨っていた」
「…………」
旅人は何時になく饒舌だ。大分酔っているのだろう。毎日浴びるように飲んでも欠片たりとも酔わない彼にしては珍しい。店主は酒の代わりにミネラルウォーターをついだグラスを旅人の前へと置いた。
「そんな俺でも希望……みたいなもんを見つけたんだ。だから、それを通して贖罪をしようと思った。身勝手だって分かってたさ。だから、取り上げられちまったんだろう。そしたらもう、何も残らなかった」
いっそ楽に死ねたらな、と旅人はぽつりとこぼした。心の奥底から吐き出された声に、同じかそれ以上に深いため息を吐く。
「おいおいお客さん。お前さんは根本的な所で間違ってるよ」
「根本?」
「そうだ。誰が死んで贖罪することが一番辛いなんて言ったんだ。俺には生きて償うことの方がよっぽど辛いように思えるぜ。死んだらそこで終わりなんだからな」
「…………確かに、終わりだ」
虚ろな瞳を皮肉げに細め、グラスへと手を伸ばした。水面を見て何を思ったのか、旅人は片方だけ口角を上げた。
「生きて償う、か。そんなこと、考えもしなかった。あいつにも散々生きろって言われたくせに、馬鹿だなぁ俺は」
どさっと小さな音を立てて旅人がテーブルの上に突っ伏す。慌てて呼び起こし、体を揺らしてみるも反応した。が、どうやら寝ているだけらしく、店主はほっと息を吐く。
中規模ギルドの依頼窓口も兼ねている店主は、ギルドから貰った書類を漁り、一枚の羊皮紙を取り出した。それは昨今この辺りの街道を荒らす盗賊団の討伐依頼。
「やってみないか」
日が暮れた頃、店主はそれを漸く起きた旅人へと差し出した。旅人は羊皮紙へと目を落とし、ざっと読んだ後、ふっと口元に笑みをつくる。
「ま、いっちょやってみるか」
一瞬ではあるがその顔がこの街ではよく見るものに見えて、店主は満足してひとつ頷いた。
***
旅人が店に顔を出さなくなってから、2日が過ぎた。依頼を達成したらその証拠を持ちかえるように言ってあるからまた顔を出すこともあるだろう。そうしたらあの青年の顔はどこまで輝きを取り戻しているだろう。店主にはそれが楽しみでもあった。
カランカラン。店の扉についている鐘が音を鳴らした。顔を上げれば小柄な少年の姿。
「いらっしゃい。悪いがお客さん。うちには酒しか置いていなくて――」
「人を探している」
言葉をさえぎって、少し低い澄んだ声で少年は言い放った。店主は首を傾げる。格好からして旅人のようだが、纏う衣類はこの辺りでは見ないものだ。外国からの旅人、というのが妥当な線だろうか。
「人?どんな奴だ」
少年は狭い店内を横切り、客の視線を集めながらカウンターへとやって来た。
「長身の男だ。西の国から船で来た。少し緩いカーブのかかった髪の、澄んだ碧の瞳を持った」
「ふむ。一週間前くらいにそんな奴がうちの店に来たが……」
「!その男は今どこにいる!」
一見クールそうに見えた少年が途端に目の色を変える。聞き耳を立てていた客たちがうっかり酒やら何やらを零す程突然声を荒げた彼に、呑まれたのは店主も同じだった。
「い、まは、盗賊団の討伐に行ってもらっている。ギルドの依頼だ」
「……そうか。着いていたか」
おやおや、と店主は更に驚く。先程までの鬼気迫る表情から一転、心底安堵したような少年は年相応に嬉しそうに破顔したのである。
「お前さんはあいつの連れかい?」
「ああ。途中ではぐれた。そんなことより、何処に行けば会える」
「さっきも言った通り盗賊団の討伐に行ったから、奴らのアジトを探してる最中とか、もう向かった後かもな」
「盗賊団だな。分かった」
少年はさっさと踵を返す。用が済んだらもう一秒でも早く立ち去りたい、とでも言うかのように。
店主はテーブルの上に片肘を突いた。
「終わったら報告するように言ってあるからここで待ってりゃ合えると思うぞ?」
「いい。俺が会いに行く」
きっぱりと拒絶して、少年はそのまま一度も振り返らず酒場を出て行った。まるで嵐のような来客に、店主はやれやれとため息を吐く。
「あの調子だと、すぐに見つけ出しそうだなぁ」
店主の呟きに、カウンター席に座っていた常連客の老人が大きく頷いた。
***
人を慈しみ、人を喰らい、人を呪った森は、最期に回想する。
森は数多の命を喰らって得た忌々しい力を持っていた。
その力を以って森は様々な奇跡を起こしてきた。
森が最期に使った力が、ただ2人とは言えヒトの導となったのなら、己の存在した意味もあったのだろう。
森は思考する。
――この選択は正しかったのだろうか
森は力を失う。
――残った力は全て、たった1人のヒトを生かすのに使ってしまった
森は瞳を閉じる。
――もう何も見る必要はない
そして、森は命を終える。
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