息を詰めた。
酷いことをしている自覚はあるのだ、これでも。けど、だからって今まで一度たりともこんなことはなかった。感情表現は豊かだし、好物に関して は人格までも入れ替わるような男だけれど、こんな、こんな風にぼろぼろと大粒の涙を流す姿は見たことがない。だから動揺した。いくら天才と名高い鉢屋三郎であっても、たかだか14の少年なのである。組み敷いての行為の真っ最中に相手に号泣されれば、困惑するのは当然だ。
「ど、どうしたんだ、兵助」
動きを止めて、先程までの記憶を振り返る。
本当についさっきまで二人はいつものように淡々と行為をしていて、押し殺された甘い声に三郎は舌なめずりさえしていた。その矢先の涙。原因も分からなければ止める方法も分からない。
しかしどうやら困惑していたのは三郎だけではないらしかった。兵助もまたどこかお どおどしながら必死で目元を拭う。止まれ、止まれ、という彼の心の声が聞こえてくるかのようだった。そんな想いも虚しく、涙は止まることを知らな い。涙に濡れさんざん拳で拭われた右目の、周囲をぼやかしていた化粧がどろどろと崩れ落ち、とうとう痛ましい傷跡が姿を表してしまった。きっと兵助は気付いていまい。この様ではそこまで気が回らないだろう。
あーあ、と心の中で呟いて身を 屈め、露になった傷口の上に軽く唇を当て、次いでねっとりと舌を這わせた。兵助の体がびくりと跳ねる。大きく見開かれた瞳がじっと三郎を見つめてくる。信 じられないと言わんばかりに。ああ、私だって信じられないさ。目の前で醜態を曝すことも厭わず泣き続けるお前の姿を。
「さ、ぶろ……お願いがあるんだ」
おずおずと、どこか絞り出す様に言う姿に、何故か胸の奥をぎゅうっと掴まれる想いがした。しかしそれをおくびにも出さず、いつも通りの声色で応じる。
「……何?」
「今だけで、いいから……俺を抱いて」
かぼそい声に面食らい、とうとう三郎は言葉を失い、ただじっと兵助の顔を見下ろす。情欲に濡れた瞳はついと逸らされ、上気した頬に一滴、雫が伝い落ちる。こんな懇願をされる日が来ようとは露とも思わなかった。そこまで思いつめていたのか。涙となって溢れだすほどに。
誰がこの自尊心の高い男をここまで追い詰めたのか。聞くまでもない。この鉢屋三郎自身だ。
自分を抱いてほしいと想い人は懇願する。今までも、そして今この時も三郎が抱いているのは兵助ただ一人だというのに。最初を間違えたから、修復が利かな い。たとえ今、私はお前が好きだと伝えれば、兵助は自分の願いを聞き入れてもらえたのだと錯覚するだろう。これ以外の場なら、その言葉自体言わせてはもらえないに違いない。推測ではなく現実にそうなのだ。
その事実がひどく哀しく思えて、朱を差す白い頬に指を滑らす。愛しいと、態度で伝えても伝わらない。言葉で伝えても信じられない。自分は『あいつ』の代わりだと信じ込んでい るこの男に、この想いは伝わらない。
どこか絶望にも似た想いを抱えつつ、三郎は手探りで近くに落ちていた腰紐を探し当てると、それで兵助の両目を覆った。
「三郎?」
視界が閉ざさ少し震え困惑した声が聞こえても、三郎は小さく口元に笑みを浮かべただけだった。そうして己が被っていた面を全て外し、その顔へと兵助の手を導い た。ぴくり、と頬に触れた指先が躊躇うように動きを止める。しかしやがておずおずと剥き出しの肌へと触れる。醜い傷が痛々しく残る素顔へと。
「さ、ぶろう…?」
「これが私だよ、兵助」
数瞬の後、言葉の意味を理解したらしい兵助が傷口の上に労るようにそっと、掌を重ねる。そして、隠された瞳からそっと涙を流した。哀しかったのか、嬉し かったのか、はたまたそのどちらでもないのか、到底分かるわけがなかったけれど、何度も何度も傷を撫でては涙を流す姿が愛おしく思えて、三郎はその日初めて、自ら兵助へと接吻した。
「好きだ」
小さく小さく呟いた想いが、彼に届いているかどうかなんて、もう関係がなかった。ただ、愛していた。
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