驚いた。喜怒哀楽ははっきりとしている方だけど、表情をあまり変えることのない人であったから、ぽろぽろとこぼれ落ちるそれを見てただ呆然として しまった。いつもはよく回る頭も、そこそこ立つ方である口も、まるで自分達の役割を忘れたかのように停止していた。頭の中は真っ白、言葉もない。書物の中 でしか聞かない言葉が我が身に振りかかったのである。それほどまでの衝撃。どうやって御すればいいのか分からず、困りきった子供のようにただ立ち尽くすし か出来なかった。
「………」
「………」
ぽろぽろぽろぽろ。溜まっては溢れ、流れ落ちていく。滅多に見ないその滴は、まるで宝石のようにきらびやかで更に兵助の思考を麻痺させていく。触れてはいないのに、ただ見ただけで侵される、のようだと馬鹿なことばかり思い付いてしまう。
「どうして、泣くんだ?」
漸く絞り出したのはそんな味気のない言葉。勉強が出来ても、運動が得意でも、泣いている子を励ます言葉ひとつ知らないのだ。
それに、万が一の可能性ではあるけれど、一見無表情な中、涙だけをただ流すこの子がもしかしたら自身が泣いていることにさえ気づいていないのではないだろうかと心配になったのだ。
「泣きたかったから、泣いているのです」
何とも要領を得ない言葉である。しかし言っている本人はいたって真面目で、冗談の欠片も見当たらず、むしろ困惑する兵助が不思議なものであるかの ような顔をするくせに、先輩には分かりませんよ、と最後通告のように告げるのである。ほとほと困り果ててどうしたらいいのか、どうするべきなのかも分から ず頭半分低い少年を見下ろす。
「僕には先輩がお豆腐をそこまで愛する意味が分かりません」
「はぁ」
別に彼が思うほど愛しているわけではないけれど。いや、嫌いだということではない。むしろ大好きだ、ではなく。
「それと一緒です」
付け加えられた言葉に、先程まで職務放棄していた頭が驚くほどの速度で回転を始めた。成程そういうことか、と合点がいった時にはまた、白い頬を滴が伝い落ちていく。こういう時に言う台詞はありがとう、なのだろうか。それともごめんね?
「何も言わないでください」
まるで心中を読んだかのような言葉にますます閉口して、ただそっと彼の目元をぬぐってやった。きっと好きだなんて口走った日には、きっと目さえ合わせてくれなくなるに違いない。
「……綾部」
名前を読んだだけでも肩が大きく震える。この子はこんなにも思ってくれているのに、自分が返せるのはそのひとかけらにも満たない。それが久々知兵助という人間で、こればかりはもうそんな男を好きになった彼が不幸であったとしか言いようがないのである。
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