ただ、空を見上げたら月が綺麗だったから。
年が開ける直前まで仕事をしていて漸く解放されたのが数十分前のことだった。何度も断ったが、どうしてもと言うので秘書に自宅まで送ってもらい寝室のベッドに倒れこんだのが数分前。先程携帯で時刻を確認したら、そろそろ日付が変わる頃合いだった。
来年はもう少しだけ時間に余裕を持って過ごしたい、と誰にともなく祈ってのそのそと起き上がり厚いコートを脱ぐ。一気に押し寄せて来た寒気にぶるりと身を震わせ、暖房のスイッチを入れた。すると気を利かせた妖精たちがふわふわと飛んできて、熱々の紅茶が入ったカップを差し出してきた。
「サンキューな」
受け取って微笑みかけると、妖精たちは嬉しそうに笑う。彼女たちの笑顔を見ているだけで、疲れも大分癒される気がした。
火傷をしないように少し息を吹きかけ、紅茶に口付ける。喉から徐々に広がっていく熱に、ほうと息を吐き出せば白くふわふわと宙空を彷徨った。
「さみ…」
こんなに寒い日は熱いシャワーを浴びて布団にくるまって寝るのが吉だ。そう思うのに徐々にぬくもっていく室内から足を踏み出すことができず、ぐだぐだと熱い紅茶を嚥下するだけの作業に没頭していた。
~~♪
突然耳慣れた音楽が聞こえてくる。何てことは無い、携帯の着信メロディだ。また仕事だろうかと億劫になりながらも上着のポケットをごそごそと漁り目当ての物を取り出す。そして、そのまま待ち受け画面を見ることなく応答ボタンを押した。
「Hello?」
「Buenas noches」
スピーカー越しに聞こえたスペイン語を一瞬聞き間違いかと思って、思わず電話を耳から話待ち受け画面を凝視する。するとそこには某国の名が記されており、聞き間違いではないが人違いではないかという疑問が浮かんできた。
「……何の用だ」
一応訊いてみる。たぶん間違いだろうしすぐに通話は切られるだろうと、そう予想して。
「今、仕事終わったくらい?」
しかしどうしたことか、相手は会話をするつもりらしい。何だこれは新年早々天変地異の前触れかと思わず身構えてしまう。
「そうだけど……それがお前と何の関係があるんだよ」
「ん……んー……まぁ、そんなに関係はないんやけど……」
珍しく電話をかけてきたかと思えば、これまた珍しく歯切れ悪く口ごもる。いったい何なんだこの状況は、とただひたすら困惑して言葉の続きを待つ。
「…ただ……空を見とったら、月が綺麗やなぁ思うて」
「はあ……」
「そしたら何となくお前に電話したくなったんよ」
不意に電話の向こうから騒がしい声が聞こえて来た。新年を祝うパーティの途中なのだろうかと、勝手に想像してふと思った。
「お前、酔ってんだろ」
「え? ああ……そうかも…」
電話口で相手が笑ったのが伝わってきた。ただの酔っ払いが相手だと分かると、一気に肩の力が抜けて、ため息ひとつ。
「…ま、ええか。ほな、俺はもう戻らなあかんから」
「あ? ああ」
忙しい奴だなと思う。決して独りじゃないことを羨んだりはしていない。神に、は誓えないけれども。
「おやすみ、アーサー」
返事をするまえに、ぷつりと電話は切られた。暫く無言の待ち受け画面をじっと眺めて、名前を呼ばれるのはいったい何日ぶりだろうかと思う。何日。何十日。何ヶ月。下手したら1年以上。それこそ、普段は国名で呼び合うのだから人としての名前を用いる必要性なんてそれほどなくて。
頭の中でぐるぐると考えが廻るにつれ、血が上って来るような気がした。携帯をその辺に放り出し片手で顔をおおってみると、想像より熱かった。
月が綺麗だったから、とあの男は言った。確か月は魔力を持っていたから、それにあてられたのだろう。アルコールも入っていたみたいだし。他意はない。そうだ。他意はないのだ。
「でも、無意識の方が恐いわ」
一部始終を見守っていた妖精の何げない一言に、うっと言葉に詰まる。彼女は悪気があって言ったわけではない。天然なのだと知っている。嗚呼、何だか堂々巡りをしているような錯覚を感じる。
ちらりと時計に目を落とせば既に短針は12を過ぎていた。新しい年が始まったのだ。何て幸先の悪い。
「? 良い、の間違いじゃないの?」
「……ちょっと暫く黙っててくれるか」
こんなことに振り回されるなんて、笑える。新年の最初の聞いたのがあの男の声だったなんて、笑えない。
何だか無性に会いたくなったなんて、それこそ――
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1年に1回くらいは美坂だって甘い話を書くのです。とかよく分からない主張をしてみたり。
出来あがってる設定。ちなみに親分は酔ってないです。
最初のフレーズを思いついて書き連ねたら何かこんなのになってたんだ…。
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