辛いことがあったの、とその子は言った。白くてふわふわしてあたたかい気持ちになるような、そんな少女だった。
辛いこと…
オウムのように反芻して少女を見る。こちらをじっと見上げてくる無垢な瞳に頭がズキリと痛んだ。
苦しそう
ああ、苦しいんだ
どうして?
どうして……?
苦しいのは確か。辛いことがあったのも確か。でも、それはいったい何だったろう。
忘れてしまったの?
ああ…
忘れた方が楽だものね
確かにそうだろう。辛いことも苦しいことも忘れてしまえばとても楽だ。とても。とても。けど、痛い。苦しい。まだ、痛い。
忘れられないのね。きっとその苦しみは貴方の深い深い所に根付いてしまっているんだわ
触れる。自身の胸に。痛む心に。
忘れてしまいたい?
訊ねる。少女は無垢な瞳で。邪気のない笑顔で。甘い毒。蛇の誘いのようだった。けれど、誘惑に沈みそうになる心を押さえて言葉を紡ぐ。
忘れ、たく…ない……
どうして
痛みを、忘れるということは、あいつを…忘れることになる。俺は……あいつを忘れたくない…!
叫びが空間に開く。どこかでパリンと何かが割れるような音がした。
なら、貴方はかえらないと。きっと、待っているから
パキパキパキ
小気味いい音が聞こえる。割れる。空間が割れる。少女が割れる。意識が白く染まって行く。そして――
暗転。
がばっと起き上がると、そこにはいつもと同じ光景が広がっていた。気が滅入りそうな程白い部屋。鼻につんとくる消毒液の匂い。目の前のベッドに横たわるのは青白い肌の、人形のような青年。沢山の管で繋がれて生かされている。
忘れたいの、と言った少女の夢を思い出す。忘れたいと思ったこともある。逃げ出したくなるような苦しみに襲われたこともある。それでも忘れたくなかった。たとえどれだけの痛みとなろうとも、この人を忘れたくはなかった。
目が覚めたら一番に君に連絡するから、と何度も医師に諭されたけれど、頑なに首を振り続けた。何度も。何度だって。
時間が空けば必ずここに来て、眠る青年の姿を眺めていた。彼はいったいどんな夢を見ているのだろう。
最初の頃は、カプセルに入れられていた男の姿をぼんやりと眺めることしかできなかった。あの頃に比べれば随分マシになったと思う。だって、触れられる。こうやって触れられる。それだけのことにどれほど安堵したことだろう。触れればあたたかいのだ。生きていると実感できる。そしてまた、泣きたくなる。
触れた。手に。あたたかく、血に染まった手に。報いは受けると口癖のように言っていた。ならば彼は、本人はこれで満足なのかもしれない。生かしたいと願うのは生きている者のエゴなのかもしれない。それでも、願った。生きてほしいと願った。いつも。いつだって。
大きいと感じていた手をそっと持ち上げて、骨と皮だけになった指先へと口付ける。この手が頭をぐしゃぐしゃにする感触が煩わしかった。けれど、嫌だと本気で思ったことは一度だってなかったのだ。
「……ロックオン」
かつて、何度も舌に乗せた呼称を繰り返し呼んで――息を詰めた。
まるで刹那の声が聞こえたかのように、瞼が震える。自分の呼吸が止まった気がした。絶えず聞こえてくる電子音さえ無くなった気がした。
ゆっくりと瞳が開かれる。何度も焦がれた碧の瞳がぼんやりと虚空を彷徨って、ふ、と刹那へと焦点を結ぶ。
「…せ……つな……?」
マスクの下、かすれた声が聞こえた。懐かしい声。ロックオンの声。間違えない。聞き間違えるものか。
震える。歓喜に。震える。
知らず涙がこぼれて、おちて、白いシーツにぽたりと染みをつくった。
「泣いて、るのか?」
小さく、かすれた不思議そうな声色に、ハッと我に返って服の袖で乱暴に目元をぬぐった。くつくつと、ロックオンは小さく笑う。
「お前が……泣くの……初めて……見た……」
これ以上の失態は晒すまいと必死に涙を堪えても、意に反してぽろぽろと涙はこぼれ落ちてしまう。だから責めるように、八つ当たりをするように、顔を伏せて握っていた手に心持ち力を加えれば、弱々しくも確かに握り返してくるものだから、それがまた言いようもなく嬉しくて声を上げて泣きだしそうになった。
「泣き虫になったなぁ……」
歪んだ表情に察したのだろう。宥めるような声が更に助長させるだなんてこと、きっとこの男は分かっていない。だけどそんなことはもうどうでもよくて。長い長い息を吐いて、ただ深く、安堵した。
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最初は普通にロックオン死んでいて、刹那が思い出を抱いたまま生きて行くって話にしようかと思ったのですが、何となく嫌でこっちにしたんだと思います(書いた当時を振り返って)。
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