第三章 会いたくなかった(嘘だ)
同じ街にいたのに3年間会わないこともあれば、1週間も経たない内に会うこともあるらしい。朝食の入った袋片手に刹那は目を細めた。対する男は苦笑い。
「そんなに嫌そうな顔すんなよ」
別に嫌なわけじゃないと心の中で否定して、けれど歩みを止めることはなかった。しかし表面上はほぼ初対面の男は何故か刹那の隣に並んだ。そしてこちらの紙袋の中をひょいと覗き込む。
「それ朝飯か?それだけで足りるのか」
「………」
答えなかった。が、ロックオンはめげない。
「お前まだ10代だろ。もうちょっと栄養つけないと――背が伸びないぞ?」
「…余計な御世話だ」
視界の端でにやりと笑うロックオンに、刹那はしまったと内心舌打ちした。別にロックオンは刹那の身長を気にしているわけではない。ただ刹那の反応が欲しかったのだろう。それに、刹那は別に同年代と比べてそれほど背が低いということもない。断じて。
「何か用か」
諦めて言葉をかけると、水を得た魚のようにロックオンは無駄に元気になる。
「これといって用があるわけじゃないんだが」
ならば話しかけるな。
「本部に顔出して帰ろうと思ったら、偶然お前が通りかかったからさ」
本部。十中八九組織の本部を指すのだろう。刹那はまだ組織に入って間もないからある程度の信頼を得るまでは本部に立ち入ることはおろか、本部の場所を知ることさえ許されない。
成程本部はこの近辺にあるのかと、ロックオンに気付かれないよう周囲を見渡す。
「お前はこの辺に住んでるのか?」
「違う」
「なら、それを買うためにわざわざこの辺まで来たのか」
「違う。仕事の関係でこの辺りに来ただけだ」
そうでなければこんな街の中心部に足を伸ばすことはないと言外に含める。そもそも刹那は11年間同居していた男の影響でそれほど好き嫌いなく何でも食べる。だからわざわざ評判の店に食事をしに行くというのは少々理解できない。家から離れた場所に朝食を求めに行くことも当然しない。腹に入れば何でも同じじゃないかと思う。けれど、3年前からは自分が口にしていたものはそれなりに厳選されていたものだと分かって、苦い思いもした。
この紙袋に入っているパンはかつて同居人が「美味しいらしい」と言っていた店のものだ。たまたま見つけて、気まぐれに買ってみた。それだけだ。この3年間、あの店の前を何度か通ったことはあるが、わざわざ足を止めたのは、隣を歩く男と出会ったからかもしれない。
この男が刹那の知るロックオンであろうと、知らないロックオンであろうと、もうどうだっていいと自分に言い聞かせていた。どちらにせよ、全ては過去だ。この男が(あのロックオンなら)忘れてしまったように、刹那もまた忘れればいい。
だから近寄りたくない。触れ合いたくない。言葉さえ交わしたくはない。それにより、同じ所を見つけてしまうのが嫌だった。違うところを見つけてしまうことも嫌だった。
「そう言えば、ティエリアの奴が言ってたんだが、次の任務辺り俺ら二人が組んでやることになるかもしれないらしいぜ」
「最悪だ」
思わず口をついて本音が出てしまった。普通の人間ならば立腹しかねない言葉に少し気まずさを感じて隣へそっと視線を向けると、ロックオンはただ何かを考えるような顔をするだけだった。少し安堵する。
「ま、当然の感想だよな。お前も俺もお互い一人でやってきた者同士だし」
「お前はティエリアと組んでいるんだろう」
「確かにパートナーっていう関係ではあるけど、ティエリアは同行しているだけって感じだな。俺が嫌なんだよ。傍に誰かを置くのが」
何となく、ロックオンが言わんとしていることが分かるような気がした。傍に誰かがいることは安心感があるものの、危険性の方が高いと刹那は考えている。当然二人の方が何かと都合がいいのだが、相手とのコンビネーションが上手くいかなければ最悪だ。しかしコンビネーションを発揮するためには相手のことを理解している必要がある。それが難しい。
殆どずっと、刹那の世界には一人の人間しかいなかった。だからそれ以外の人間とどう接していいかが分からない。それこそ背中を預けられるほどの信頼関係を築くためにはどうしたらいいのか分からない。どの段階まで親しくなれば大丈夫なのかも分からない。それって一種のコミュニティ障害だよねとアレルヤはぽつりとこぼしていた。
「お前、この仕事初めてどれくらいだ?」
「3年」
またうっかり答えてしまった。考え事に没頭していたのが敗因だ。
ロックオンは顎に手を当てて成程、とよく分からない相槌を打った。
「ならキャリア的には俺の方が上だな。まぁ、そういう任務があったら俺がお前をサポートする。お前はお前の思う通りにやればいい」
ギリっと奥歯が嫌な音を立てて軋んだ。今、ロックオンが言った言葉と全く同じ言葉を過去にも聞いたことがある。あれは確か刹那が初めて人を殺した日のことだ。忘れたくても忘れられない記憶。あの人と同じことをこの男は言う。同じ所を見つけてしまうから、違う部分が余計に目立って、苛む。
「ん。じゃ、俺こっちだから。またな」
ひらひらと手を振って、こちらの応答も聞かずにロックオンは雑踏の中へと消えて行った。取り残された刹那は自然と足を止め、俯く。
目の前の道を真っ直ぐ行けば去年移り住んだアパートがある。その場所には、今はもう誰もいない。
肩の力を抜くように息を吐いて、曇り空を見上げた。分厚い雲に覆われて日の光は遠い。
思った。雑踏に消えて行ったあのロックオンのグローブは、いったいどこで手に入れたのだろう。昔、似たようなグローブを大切な人にプレゼントしたような気がする。忘れたい。忘れよう。忘れろ。あの男がそうであるように忘れろ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。何度も、何度も何度も何度も自分に暗示をかける。
あの人にはもう二度と会えない覚悟をしていた。だから会いたかったわけじゃない。会いたかったわけじゃないんだ。
+++
ロックオンの言っていた共同任務は意外と早くにやってきた。強いていうなら、刹那の気持ちの整理が未だ不十分な時に、だ。しかし仕事は仕事だ。生きるために他人を殺すことを選んだ。だから気を抜けば死ぬのは自分だ。
それに、と、刹那は左の手首を軽く押さえた。包帯はもう取ってあるが先日ナイフがかすったそこにはまだ傷痕が残っている。面倒な時期に面倒な仕事。それは主観的に見た事実としてそこにあった。
任務自体はそれほど難しいものではないと、ティエリアは説明した。ターゲットがパーティ会場に入る隙を突いて殺せ。ただそれだけのありきたりな任務。周りの人間は全て殺してもいいとのことだ。たとえそこに無関係な一般市民がいても巻き込んで構わない。曲解すればそういうことだ。
「…一般人はなるべく殺さずに済ませたいな。こんなパーティに参加している奴なら一般人の括りに入れるかどうかも怪しい所だが」
「邪魔になるなら殺すしかない」
「確かに……そういう気構えでいる必要はあるが……」
甘い奴だと思う。甘く、だから優しい人間なのだろうと。人殺しを生業とするわりには常識人だ。
「こちらとしては、ターゲットを始末してくれるならばどちらでも構わない。根回しの関係上被害が少ない方がベストではあるが」
ティエリアの言葉に頷いた。二人とも。
先行するのは刹那。ロックオンはいつかの言葉通り後方からのサポートをメインにこなすことになった。刹那は愛用のナイフの状態をチェックする。場所はパーティ会場傍の路地裏。遠目に漸く会場を臨めるこの場所には、SPの姿はなかった。パーティがあくまで極秘裏に行われていることが理由のひとつだろうとロックオンは言っていた。けれど、何だっていい。早く終わらせたい。
「……あれか」
ロックオンの声に彼の視線の先を見る。通りの奥から黒塗りのリムジンがゆっくり会場へと近づいて来た。
「準備は」
「問題ない」
2本のナイフを引き抜き応える。
「…手筈通りに」
リムジンから視線を逸らさない刹那の背中に声がかけられる。
「気をつけろよ」
付け加えられた蛇足のような言葉に、グッとナイフの柄を強く握りしめた。
程なくして、リムジンが会場の前に止まる。それを囲むように数台の車が周りを固め、ぞろぞろと黒いスーツに身を包んだ強面の男たちが下りてきた。そして、最後に中央のリムジンから初老の男がSPに導かれて下りてくる。
「行く」
刹那は真っ直ぐ、ターゲットに向かって走り出した。
「誰だ!」
「止まれええええ!!」
こちらの疾走に気付いたSP達が声を荒げ懐から銃を抜く。一番近くにいた二人の手元へと刹那はナイフを投げた。小さなうめき声をあげて二人の手から同時に銃が落ちる。男たちが銃を拾うと屈む直前、右手側の男の懐へと飛び込んだ。既にその手にはホルスターから抜いた大ぶりのナイフが握られており、男の頸動脈を絶ち切る。紅い血を上げる男の背に、パパンと立て続けに2発、刹那を狙った弾丸が飛んできた。刹那はそれを意に介さず、男の手から投擲用ナイフを抜き、隣の男へと投げた。右胸にナイフを受けた男が倒れる向こうに、銃口がいくつも見える。
左右合わせて、2、3、4丁。雨のように降り散る銃弾を交わし、ナイフを左手に持ち替え懐から銃を抜いた。目の前の男たちが一瞬怯む。その隙に立て続けにトリガーを引き、自身は先程倒した男たちが下りてきた車の陰に身を潜める。
ふと、一般人に被害は出したくないと言ったロックオンの言葉を思い出し、刹那は腰のポーチに伸びかけていた手を引いた。グッと奥歯を噛んでナイフをホルスターに収め、目の前の死体から投擲用ナイフ2本をとり返す。そして銃撃が止んだ一瞬の隙を突いて身を躍らせた。車のボンネットを飛び越えれば、目の前には搭乗者のいないリムジン。ターゲットはパーティ会場へと逃げ込もうとしていた。そこへ、1発の重い銃声が鳴り響く。
「―――!」
誰かが叫び声を上げた。SPに護衛されながら逃げようとしていた男が頭から血を流し、地に伏した。ロックオンのスナイパーライフルによる攻撃だ。ターゲットは倒した。今のところ、一般人への流れ弾による被害は見当たらない。刹那は左手前方に無造作にナイフを投げる。4つあった銃口の内2つは沈んだ。視線を向ければ更にもうひとつは刹那の撃った弾に当たって地に倒れもがいていた。後、ひとつ。
不意に違和感がよぎった。背筋に冷たいものが落ちる。おかしい。何かがおかしい。
違和感の正体を探るべく、敵からの攻撃を避けつつ辺りを見渡す。そこで気付いた。車の台数に比べSPの数が少なすぎる。この場にある車は全部で4台。リムジンを除けばどれも定員4名。しかし、この場にいるのはターゲットについているSP2名。刹那が倒した者が5名。残り1名。
「…どういうことだ…!」
押し殺した叫びを上げた直後だった。目の前のパーティ会場の扉が音を立てて多き開かれる。そこから現れたのは――銃を手にした男たち。短機関銃までも用意しされている。人数はここに倒れている男たちの軽く3倍はいるだろう。
「逃げろ、刹那! 罠だ!!」
ロックオンの焦った声が聞こえる。理由を考えるのは後だ。ぞろぞろと流れ出てくる男たちの波に飲み込まれる前に身を翻し、来た道を戻る。背後からは銃声が絶え間なく聞こえる。いくつかの銃弾が背後の地面を穿ち、またいくつかは刹那のすぐ横をかすっていった。
「ルートD3を使え!!」
ロックオンの言葉に答える代わりに近づいて来た男たちに投擲用ナイフ3本を打ちこんだ。
多勢に無勢をこのような形で体験することになるとは思ってもみなかった。かすり傷をいくつか負いつつロックオンに合流する。致命傷を負わなかったことは殆ど奇跡に近かった。磁気嵐の所為で通信手段が限られているが、ティエリアの方へとこの情報は伝わっているのだろうか。あるいは――ティエリアが裏切っていた可能性だってある。
追手の怒声と足音を遠くはない位置に聞きつつ、ロックオンと刹那は路地の物陰に身を潜めていた。
「チッ。何がどうなってやがる」
苛立たしげな声を、刹那は装備の確認をしながら聞いていた。
ロックオンが指定したルートD3。それは組織に提示された逃走ルートにはない二人が独自に打ち合わせして決めた合流地点だ。だから先回りもされていなければ容易に見つけられることもなかった。しかしその事実が示す可能性は、何者かの裏切り。
「…逃走用の車も一応見てきたがハチの巣にされていた。おかげで追手を二人増やすはめになった」
「情報が漏れていたか、もしくは、組織に裏切者がいるか」
「最悪のケースは組織が俺たちを裏切っている、だな」
イラついていてもロックオンの手元に狂いはない、リボルバーに丁寧に銃弾を詰めている。
「武器は?」
「…投擲用ナイフが2本。大ぶりのナイフが1本。銃はあるが弾切れだ」
「見せてみろ――ああ、これなら予備の弾を持ってる」
ロックオンは腰のポーチから弾倉を取り出し、手早く交換すると銃を刹那へと渡した。それを受けとり、腰のホルスターへと収める。
「他には?」
「ない」
「……俺の方は、自動式とリボルバーが1丁ずつ。弾は今お前にやったので全部だ」
「サブマシンガンは?」
「弾切れで捨ててきた。ライフルなんざあの場に放置だ。とんだ赤字だな」
軽口を叩く割りに、ロックオンの顔色はさえない。それに目を細めた刹那に気付いたらしいロックオンは、さっきの話だが、とぼんやりした口調で口を開いた。
「組織が俺たちを裏切った、もしくは何らかの理由で敵に売ったってやつだ。その場合、組織に属して間もないお前を組織が捨てるとはあまり考えられないし、売るだけの価値はない。だから、俺はお前を巻き込んじまったのかもしれない」
何だそんなことかと刹那は内心嘆息した。
「仮に俺がお前に巻き込まれただけならば、それは俺の運がなかっただけの話だ。お前が気にすることはない」
「…………」
「……ティエリアが裏切ったということは考えられないのか?」
「逃走用の車をあそこに用意したのはティエリアだ。あいつ自身が裏切ったならばそもそも車を用意しないだろう。約束の場所にあった車はティエリアの言っていた通りの車種とナンバーだったしな」
「そうか」
「ともあれ犯人探しは後だ。今は逃げ伸びることを考えよう」
どこか力ない、けれどしっかりしたロックオンの声に、刹那は考えるまでもなく頷いていた。
「とりあえず、この先に行ったところに俺が借りている部屋がある。名義は別だし、組織にも教えていない部屋だ。ひとまずそこに向かおうと思う。お前も…来るか?」
「いいのか」
「俺が断る理由はねぇよ。そうと決まれば、急ぐぞ。日が昇る前に辿りつきたい」
首肯し、立ちあがったロックオンに続いて刹那も歩き始める。おぼろげな月明かりを受ける背に、すっと目を細めた。
逃走は割とスムーズにいった。この辺りに部屋を持つということだけあり、ロックオンの方が追手より地の利があったせいかもしれない。
「この通りを抜けたらすぐだ」
この通り、とロックオンが指すのは街の南西にある大通りのひとつだった。必要とはいえこのような広い通りを歩くのはやや抵抗がある。と、その時、視界にきらりと光るものが見えて刹那は咄嗟にロックオンの前に身を躍らせていた。
「――っ」
「刹那!?」
ロックオンに覆いかぶさるように倒れた刹那の背には、あろうことか刹那が使っていた投擲用ナイフが深々と刺さっていた。それを見て自体を察したロックオンが銃を抜く。しかし暗がりの所為で敵の姿が見つからない。
「ヒヒっ。仲間の仇だ!」
仇。ぽつりと刹那は口の中で反芻した。ギリっと歯ぎしりの音がする。視線を上げれば、ロックオンは刹那を軽く左腕で抱え、虚空へ銃口を向けていた。
「……なよ」
「………ロックオン…?」
「この俺を、舐めんなよ!!」
ロックオンが吠えるのと、静寂の通りに轟音が轟くのは同時。直後にナイフを放ったらしき男の短い断末魔の声が聞こえた。
はっ、と自分を抱く男の肩で息をする声が聞こえる。痛みで朦朧とする意識の中、刹那は朧月に照らされる男の横顔へと手を伸ばした。誰のものか分からない血が指先を伝って男の頬へ落ちる。
頭によぎったのは懐かしい面影だった。変わらない、と思う。3年前の、最後に見た横顔とちっとも変らない、と。
「ロックオン……」
「! 大丈夫か!!」
焦ったような声色も、こちらを心配そうに見下ろす碧の瞳も、ぜんぶ、ぜんぶ、記憶にある通り。覚えているよ。ああ、なんて懐かしい。だからこそ、胸の奥で燻ぶるソレを止めることができなくて。
「どう…して……」
あふれてしまう。
「おいて、いった」
「刹那?」
ちがう。その名はちがう。ちがうということをお前は知っているじゃないか。それなのにどうしてそんな名前で呼ばれなくてはいけないんだ。他でもない、お前自身に。
くやしくて。くるしくて。頬に添えていた手の爪を立てた。小さな痛みが襲ったのか、端正な顔が少し歪められる。それが少し面白くて、それから、何かがとても、かなしくて。
「…にい……さん………」
気付いたら呼んでいた。もう、二度と呼ぶことはないと思っていたのに。
あふれて、一度あふれたら、止まらなくて。きっと思考にかかる靄が晴れたら後悔ばかりがこの身を苛むのだろうけれど。
「にいさん…………」
「――ッ」
本当はずっと、ずっと、会いたかったのだと、そう口に出して言ってしまったら、何かが全て壊れて消えてしまいそうな気がしたのだけれど、幸か不幸かもう口を動かす力も残っていなくて、血に濡れた指が滑り落ちる。意識が、落ちる。
「刹那!!」
違う。違うんだ、兄さん。俺は――
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