第六章 あにおとうと
刹那の(或いはソランの)一番古い記憶は、ロックオンの小さな背中越しに見る知らない大人たちのごみを見るような目だった。後に聞けばそれは、ロックオンが失敗した仕事の関係者の男たちだったらしい。12歳の子供だった兄は、それでも刹那を護ってそこに立っていたのだ。
「…えっと、俺の名前はロックオンだ」
「……?」
「お前の名前は?」
「ソラン」
「うん。ソラン、初めまして」
「はじめまして?」
そんな言葉を交わしたんだと後にロックオンから聞いた。
刹那はまだ呂律も上手く回らない頃からロックオンと一緒だった。理由はよく覚えていないが、刹那はロックオンと二人きりで暮らしていた。両親のことはよく覚えていない。ある歳になるまでは『父親』という存在そのものを知らなかったし、その頃になれば母親の顔も殆ど覚えていなかった。ただ、ロックオンと刹那の間に血のつながりがないことだけは知っていた。
ロックオンは、よく出かけていた気がする。彼の生活サイクルに朝昼晩という決まったリズムはなかった。時には朝に出かけ、時には昼に出かけ、時には夜に出かけ、朝に帰り、昼に帰り、夜に帰り、何日も帰ってこないこともざらだった。
食事はその辺で売っている物を与えられていた。食べるものがなくてひもじい思いをしたことはなかった。が、当時を振り返ってみるとロックオンに出会うまでもろくな食生活を送っていなかったので、1日1食で事足りていたのだろうと分かる。何年か後には、刹那の発育が悪いと思ったらしいロックオンが3食きちんと作って出かけるということが多くなった。
ロックオンがいない間、刹那は狭い部屋でずっと一人だった。それまでの生活から考えると雨風凌げる場所にいられるだけで十分だったので、特に不満はなかった。一日中部屋にぽつんと独りだった。時々、どうして母親はここにいないのだろう、会えないのだろうと、不思議に思っていた。
何ヶ月か経った頃、ロックオンも子供ながらにこのままではいけないと思ったのか、刹那に一冊の本を与えた。4歳児が読むには標準的な絵本だったのだが、あいにく刹那は字を全く読むことが出来なかったので、翌日には子供向けの読み書きの教材が渡された。
渡されたそれらにものに刹那は最初戸惑った。けれど退屈な(当時はそれを退屈だと感じてはいなかったが)日常にもたらされた変化を受け入れた。言葉を覚えることは楽しかった。新しいことを覚えることも楽しかった。昨日までは読めなかった本が読めるようになることは嬉しかった。子供の貪欲な知的好奇心は、刹那の瞳に光を宿した。
それからロックオンは出かけるたびに本を持って帰って来た。当時の刹那には不思議なことだったが、ロックオンに与えられる本は難しすぎることも簡単すぎることもなく今の自分にとっては丁度いいレベルのものだった。徐々にレベルアップしていく内に、部屋が本でいっぱいになってきた。部屋の一角が本で埋まった日にはロックオンも複雑な顔をしていた。そしてもうあまり読まなくなった本をまとめてどこかへ持って行った。
ある日、ロックオンはいつものように読まなくなった本をまとめていて、ふと刹那の方を見た。
「…古書店、一緒に行くか?」
古書店というものが古い本を取り扱っている店であると本を読んで知っていたけれど、どうしてそこに行くのかは分からなくて、刹那はただ首を傾げた。するとロックオンはガッカリしたような顔をして、俺と一緒は嫌だよな、と言った。
刹那はビックリした。違う。違うのに。どうしてそんなことを言うのだろうと慌てふためいて、咄嗟にぎゅうっとロックオンの手を握りしめた。ロックオンは先程の刹那以上に驚いた様子だった。それからまじましと刹那の顔を見て、はにかむ。
「行くか」
こくりと大きく頷いた。
ロックオンは紙袋に本を沢山入れた。時々、この本まだ読むか?と訊ねられた。読まないということはその本が要らないということで、要らないと言うのは何だか凄く嫌な気持ちになったので返答に窮していると、あのな、とロックオンはまだ幼さの残る顔で刹那と視線を合わせた。
「要らなくなった本を売って、お金に換えて、違う本を買うんだ。そうしたら要らなくなった本も無駄にならないし、また新しいことを覚えられるだろ?」
刹那はぱぁあと顔を輝かせた。何て画期的なシステムなのだろうと内心はしゃいでいたのだ。けれど刹那は自分が思っているよりも表情が顔に出ない性質だったので、ロックオンは刹那が喜んでいるのか哀しんでいるのかいまいち分からないようだった。
だから刹那はロックオンに応えるように、読まなくなった本を次々と紙袋に入れて行った。それを見たロックオンが目をまるくして、ちょっと笑っていた。
外に出るのは久しぶりだようなのだが、刹那の記憶にある中では初めての体験だった。本の中でしか見たことがない世界がそこには広がっていた。相変わらず穢い街だよなとロックオンは呟いていたけれど、刹那にとっては知らないことばかりできらきらと輝いて見えたものだ。
古書店は家の傍にあった。沢山の古書で埋め尽くされた小さな店は若い男が店主を務めていた。ロックオンは慣れた様子で店主に本を差し出し、店主は一冊ずつじっくり観察して値段をつけていった。その間は自由にしていいと言われたので店内にある本を物色する。当然のことながら、見たこともないような本がずらりと並んでいた。あれはこの前読んだ本の続きだろうか。あれはこの前読んだ本と同じシリーズの本だ。
あちらへこちらへ視線を向けていると、不意にロックオンが刹那の隣に立っていた。
「欲しいのがあるのか?」
「……欲しい?」
「え?あ、欲しいが分からない?えっと、読みたい本っていうか……」
うろたえるロックオンを見て、この人もこんな顔をすることがあるのかと変に納得した。
刹那は欲しいという言葉が分からないわけではなかった。ただ、何かが欲しいという感情が理解できなかったのである。何かをしたいという概念が欠落していた。それは物心ついてからずっと、与えられるものをただ享受し続けてきた所為ではあったが、当時の刹那にそんなことが分かるはずもなく、まさか刹那がそんなことも分からないとは思ってもみなかったロックオンは困惑を深めるばかりだった。
「あー、ほら、それ。この前読んでたやつの続きだろ?」
頷いた。
「じゃあそれ読みたくないか?話の続き知りたくない?」
少し迷って、頷いた。するとロックオンはほっとしたようで、その本を棚から引き抜いてカウンターの方へと持って行った。
「これ、足りる?」
「………ああ。まあ。余るくらいじゃねぇの」
「じゃあこれよろしく」
ロックオンが店主と何の話をしているのか分からない刹那はただぼんやりと二人のやり取りを見ていた。
暫くして、本の査定が終わりロックオンはいくらか代金を貰っていた。そしてそれを全部刹那へと渡す。
「お前にやった本の代金だから、これはお前の金だ。お前が好きに使ったらいい」
「俺が?」
「そう。家にある本も売ったらいい。それで新しい本を買ってもいいし。あ、俺は今まで通りお前に本をやるし、欲しい本があるなら言ってくれたら買ってくる。本じゃなくても、他に、雑貨?とか、後、食べたいもんとか、あったら何でも言ってくれたらいい」
刹那は不思議な気分だった。こんなにもロックオンが長い言葉を刹那へかけるのは初めてのことだった。それが刹那がしたいことをすればいい、欲しいものがあれば言えばいい、などということなのでますますどうしたらいいのか分からなくなる。少なくとも刹那は現状に何ら不満を持っていない。だからそれ以上を求めろと言われるととても困る。
「おい、ガキ」
奥のカウンターから店主が声をかけてきた。彼から見たガキが刹那を指すのかロックオンを指すのかは分からないが一応視線を上げてみると、店主はカウンターに肘をついて細い目でこちらを見ていた。
「ガキってもんはな、もっと貪欲でいいんだよ。テメェの兄ちゃんは自分もガキのくせにお前に何かしてやりたくてしゃあねぇんだろうよ。だから何でも言ってやれ」
「そうなのか?」
訊いてみた。ちゃんと何かを話しかけたのはこれが初めてかもしれない。一方ロックオンはどこか気まずそうに視線を逸らして頬をかいた。
「そうだ。店長の言う通り俺もガキだから、お前に何してやったらいいか分かんないし。とりあえず本やったら気にいったみたいで色々買ったのはいいけど、この間知り合いに「ガキに本ばっかりやってどーすんだよ」って怒られてさ…」
「それはおかしなことなのか?」
「え?あー…俺も分かんない。店長はどう?」
「俺が知るか」
刹那は知らないことだったが、その場にいた3人とも全うな幼少期というものをおくっていないので、一般家庭がどうこうというのはさっぱり知らなかった。
「そいつがいいなら何でもいいんじゃねーの。お兄ちゃんよ」
「…変な呼び方すんなよ、店長……」
お兄ちゃん。刹那が心の中でそっと呟いたことをロックオンは知らない。
それから一月程経った頃、また部屋の一角が本で埋まりそうになってきたので、刹那はロックオンがしていたように本を紙袋に詰めた。ロックオンはいつものように出かけていたから一人で袋を持って古書店へと行った。相変わらず本ばかりの店の中、店長は以前と同じようにつまらなそうにカウンターに座っていた。えっちらほっちら袋を運んで店長へと差し出す。
「あの、これ」
「おう。ちょっと待ってろ」
「分かった」
大げさな程こくこくと頭を上下に振って、この間と同じように店内を物色する。程なくして店長の呼ぶ声が聞こえて刹那は慌ててカウンターへと向かった。
「…×××ってとこだな。いいか?」
それが適正価格なのかどうか分からない刹那はとりあえず頷いた。店主もまた頷くと本を横にどかしてカウンターの上に代金を置いて行く。代金は好きに使っていいというロックオンの言葉を思い出して、刹那は必死に頭をめぐらしていた。
「よし。丁度だ」
「あの」
「あ?」
「これで、グローブは買えるか?」
「グローブ?テメェの兄ちゃんがしてるみたいな奴か?」
頷いた。すると店長はふぅむと唸ってカウンターの上に並べた貨幣を見つめる。そして、ちょっと待ってろと言い残し店の奥へと消えていってしまった。
言われた通り待っていた刹那の元へ店長が戻って来たのは10分程経った頃だった。
「前に贔屓の客に貰ったもんでな。結構良い品なんだがよ、俺1日中店にいるから使わねーんだわ」
そう言って店長が差し出したのは綺麗な箱に入ったグローブだった。黒い、恐らくは革で出来たそれに刹那はただ目を見開く。
「テメェの兄ちゃんにはちょいとでかいかもしんねぇが、ま、あいつガタイ良さそうだしすぐぴったりになんだろうよ。で、これでいいなら売ってやるけどどうする?」
「欲しい」
「そうか。んじゃ、この代金全部貰うぜ」
え、と思わず刹那は声を上げていた。しっかりとした知識があるわけではないけれど、革のグローブは高価なものだということは本を読んで知っている。本当に本の対価だけで足りるのだろうか。
こちらの意図を汲み取ったのか店長はいーんだよ、と欠伸交じりに言う。
「兄ちゃん何やってっかしらねぇけど金回り良いし。常連さんへのサービスだ。持ってけよ」
店長にぐいっと箱を押しつけられて刹那はもうどうしたらいいのか分からなくなる。こういう時、こういう時にはどういうんだっけ。ええと、確か、
「ありがとう」
深々と頭を下げて言うと、店長はふっと笑った。
「どーいたしまして?」
急いで家に帰るとロックオンはもう家に帰って来ていた。何ていいタイミングだろうと胸が逸る。
ロックオンは刹那が帰って来たのを見るとどこかホッとしたような顔をして、ボロボロになったグローブを外していた。
「古書店か?」
「ああ」
頷く。何だかそわそわする。けれど折角手に入れたのだ。店長の厚意も無駄にしてはいけない。刹那はすぐに決心してロックオンへと近寄った。普段はここまで近くに寄ったことはない。部屋の真ん中に座るロックオンは不思議そうに刹那を見上げてくる。
「あの」
刹那から話しかけるのはきっと2回目だ。ロックオンもそれを分かっているからこそどこか戸惑っているようにも見える。
「えっと」
何を恥ずかしがっているのかと自分を叱咤する。がんばれ。がんばれ。そう念じて、バッとロックオンの目の前にグローブの入った箱を差し出した。
「これ、兄さんに、プレゼント」
誰かに何かをあげることをプレゼントをすると言うことは昨日本を読んで知ったことだ。店長がロックオンのことをテメェの兄ちゃんと呼ぶから、多分、刹那にとってロックオンは兄さんというものなのだろう。うん。何も間違っていない。
それなのにロックオンは呆然としていた。内心凄く焦る。如何しよう。プレゼントをされた人は皆喜んでいるのに。兄さんは喜んでくれないのか。
「……っ」
息を呑む声が聞こえた。もしかして怒っているのだろうか。凄く不安になる。けれど、ロックオンは刹那の手からその箱を受け取った。
「……ありが、とう」
掠れた声だった。ロックオンの体が傾ぐ。驚いて慌てふためく刹那の耳に聞こえたのは押し殺した嗚咽だった。喜ばせたかったのに泣かせてしまった。どうしてなのか全く分からない。どうしたらいいのかも分からない。
ロックオンの目の前に座ってみた。ロックオンが顔を上げる気配はない。困った。もしかしたらどこか痛いのだろうか。医者が必要だったりするのだろうか。
「兄さん…どうしたんだ?」
「……何でも、ない……ごめんな」
何でもないというのなら何でもないのだろう。けれどどうして謝られてしまったのだろう。ロックオンは何か悪いことをしたのだろうか。分からない。
結局刹那はロックオな泣きやむまでじっとそこに座っていた。
その日から、言葉を交わすことが多くなった。ロックオンは出かける前にいつ頃帰ってくるのか教えてくれるようになった。けれどその時間を過ぎても帰ってこない日も多かった。
ある時、帰って来たロックオンに「おかえり」と言ってみた。ロックオンは凄く戸惑って、それから少し頬を赤らめて「ただいま」と答えた。二人ともぎこちなかった。
本のリクエストをすることもあった。刹那が本に偶々載っていたレシピを真似て料理を作ったら凄く喜んでもらえた。ロックオンが出掛けない日は二人で市場に買い物に行くこともあった。そんな日は二人で料理を作った。
そうやって二人は本当の兄弟のように過ごしていた。不思議と喧嘩をすることもなかった。
それから何年か経った頃、刹那は今はもういなくなってしまった(街を出たらしいとロックオンは言っていた)古書店の店長の言葉を思い出していた。
『兄ちゃん何やってっかしらねぇけど金回り良いし』
ロックオンがどんな仕事をしているのか刹那は全く知らなかった。ただ、時々ロックオンからは変な匂いがした。
「どうして煙草を吸うんだ?」
変な匂いは煙草の香りに消されることが多い。そんなことを思いつつ訊ねたら、何を思ったのかロックオンは凄く慌てて今まさっきまで吸っていた煙草をもみ消し、残っていた煙草も箱ごと全てゴミ箱に突っ込んでしまった。刹那が気にしたのは煙草の煙ではなかったのに。
煙草を止めたロックオンからはやはり時々あの変な匂いがした。刹那はそれが不思議で仕方がなかったから、ある日思いきって訊いてみた。それは何の匂いなのか、と。
するとロックオンは驚いて、暫し考えた後懐から黒い塊を取り出した。
「…硝煙って分かるだろ?それの匂いだ」
ああこれが硝煙の香りなのかと納得したから、ロックオンが銃を取り出したことにも違和感はなかった。やがて、ロックオンは観念したように語り始める。
「お前が気にしているようだから話すが、俺の仕事はこれで人を殺すことだ。他にも護衛とかしたこともあるが、敵が人であることは一緒だな」
「人を殺す……」
「そうだ」
そう言ったロックオンの複雑な表情を刹那は忘れることができなかった。負い目を感じているように見えた。本当は話すつもりがなかったのだとすぐに分かった。刹那には知られたくなかったのだろう、と。
何故、隠されなければならないのだろうか。ロックオンは自分が人殺しであることを刹那がすれば、幻滅されるとでも思っていたのだろうか。勘違いもいいところだ。ロックオンが、人を殺すことに一片でも辛いと感じているのなら、それを緩和出来る存在になりたい。同じものを背負っていきたい。隣に、並び立ちたい。それは、その願望は、刹那が今まで抱いたことのない程強い感情だった。
けれど手伝いたいと言ったところで、ロックオンが素直にそれを受け入れるとは考えがたい。どうしたらいいのだろうと俯く刹那に、再び躊躇いがちな声がかけられる。
「お前の…母親の話だけどな」
「母親…」
呟いて顔を上げる。色を欠いたロックオンの瞳にぞくりと悪寒が走った。
「……死んだ。殺されたんだ」
「………殺された」
鸚鵡返しに呟いて、再び俯く。本の世界では母親が死ねば、死んだと知れば子供は泣いたり怒ったりする。殺されたと知れば復讐を誓うこともある。それなのに、刹那の中には何もなかった。何の感情もなかった。自分がここまで薄情な人間だとは知らなかった。それを兄に知られたくもなかった。
「復讐、したいか」
どくり。心臓が高鳴った。反射的に頷く。それが普通の反応だから。
「……辛いぞ」
「構わない」
それが模範回答だと刹那は信じた。
「俺ならその術を教えてやれる。俺は人殺しだからな」
この街では珍しくもないことだと刹那もいいかげん知っていた。そこでふと思った。ロックオンに人を殺す術を教わることは、ロックオンの隣に立つことへ繋がるのではないか。母の復讐という大義名分は初めて抱いた欲望の隠れ蓑になるのではないか。
「お前は、他人の命を背負えるか。後悔、しないか?」
「しない」
「………そうか」
ロックオンは深い深い息を吐いた。諦めと、僅かな安堵が含まれている気がした。きっとロックオンはこの時、刹那に殺される未来を受け入れたのだ。
「…俺は、お前と同じ場所に立ちたい」
ぽつりと呟いた。言うつもりの無かった本音は、滅多に泣かない男に泣きそうな顔をさせる程の威力があった。
「もしも、俺とお前が組んで仕事をするようなことがあったら、キャリアは俺の方が断然上だから、俺がお前を全力でサポートする。お前はお前の思う通りにやればいい」
泣きそうな、嬉しそうな、笑みを浮かべて、ロックオンはそう言った。
ロックオンは仕事の合間をぬって刹那を連れだした。全て人を殺す訓練のためだ。
以前よりずっとロックオンといることが多くなった。それが少し嬉しかった。ロックオンも同じように感じていたのかどうかは定かでないが、ロックオンはそれまで外でしていた仕事の準備を家に持ち込むことも多くなり、以前より格段に家にいることが多くなった。理由を訊ねてみると、少しでも長く一緒にいたいからと真顔で言われて、凄く困った。
訓練を受けて1年が経った頃、刹那は護身用にとロックオンからナイフを一本貰った。お前は銃よりナイフの方が得意だから、と言われた。
その日、ロックオンは仕事出かけていたので、刹那は一人で市場に向かっていた。
近道をしようと路地に入ったのが間違いだった。その辺によくいるチンピラに理不尽な因縁をつけられて、有り金全部置いて行けというお決まりの文句を言われた。勿論、そんなものに屈する刹那ではない。断ると、チンピラ3人は一斉に刹那に襲いかかって来た。
彼らが――プロの殺し屋の訓練を受けた刹那に敵うはずがなかった。
刹那は冷静にロックオンに教わった通りに体を動かし、そして、人を殺した。刹那のナイフを受け地面に倒れて動けなくなった仲間を見て、他の二人は情けない悲鳴を上げて逃げ去った。残された刹那は呆然とその死体を見つめるしかなかった。そこで初めて後悔した。手加減すべきだったと。
この死体をどうすればいいか分からない。死体を置いておけば警察が来て事件になる。犯人を探されれば、逃げた二人は喜んで刹那がそうだと進言するだろう。そうしたら、ロックオンに迷惑をかけてしまう。どうしたら、いい。どうすれば。
「……兄さんっ」
馬鹿みたいに助けを求めた。ロックオンがここに来るわけがないと分かっていたのに。その時。
「こっち」
後ろから手を引かれた。強い力にたたらを踏む。振り向けば刹那より少し年上らしい少年がいた。
「あ、ナイフか。ちょっと待って」
少年はそう言うと死体からナイフを引き抜き、刃についた血を男の服で拭うと、何食わぬ顔でそれを刹那の手に握らせた。
「逃げるよ」
抵抗する暇もなく、刹那は少年に引きずられるようにその場を後にした。
どこをどう走ったか分からないが、気付いたら家の近くの通りに出ていた。
「ここまでくれば大丈夫」
少年はそう言って笑うと、刹那の手を放した。
「あの場は僕が片付けておくから安心していいよ」
刹那には少年の言っていることがさっぱり分からなかった。
「元々ああなったのは――ううん、何でもない」
「お前は……」
「僕はアレルヤ。駆け出しの情報屋だよ」
情報屋というものを知識としては知っている。ロックオンも時々そういう人間から情報を買うことがあると言っていた。
「僕はもう行かないと。あ、これ、僕の連絡先。何か困ったことがあったらここに連絡して」
アレルヤと名乗る情報屋はまた勝手に刹那の手に紙切れを握らせると、あっと言う間に立ち去ってしまった。暫し呆然としていた刹那だったが、手に持っていたナイフを見下ろし、自分が犯した罪を思い出して、その場に蹲った。殺した。自分は。殺した。
その時感じた暗い喜びの理由を刹那はまだ、知らなかった。
胃の中が空っぽになった。街の明かりも消えた頃、刹那は家に戻った。ロックオンはまだ帰ってきていなかった。
ロックオンが帰って来たのは二日後のことだった。
「ただいま……明かりもつけないでどうし――ソラン?」
部屋の隅で小さくなっていた刹那にロックオンはすぐに気付き近寄って来た。また、硝煙の香りがした。
「どうした?」
自分のよりふた回りほど大きな手に撫でられて、言葉が堰を切ったように溢れだした。刹那は人を殺したこと、その一部始終を全てあますことなく話した。終わるまでロックオンは何も言わずただ黙って聞いていた。
「……恐くなかったか?」
話し終えた刹那にかけられたのはそんな言葉だった。
「恐くなかった」
刹那は即答した。
「震えてないか?」
ロックオンは再び問いかけてくる。
「震えてない」
即答。
「また、人を殺せるか?」
「殺せる」
三度の問いに、即答。
全部ウソだ。
ひとつでも肯定したならば、自分はもう2度とロックオンの隣に並び立つことは出来なくなるのだと直感していた。
思った。こんなことを生業とし生き続けてきたこの人は、何て強い人なんだろうか、と。歪んだ憧憬を抱いた。この人と一緒に生きていきたい。自分が感じたこの苦しみを、同じように感じたこの人の負担を減らしてあげたい。大切な、ただ一人の彼のために。
「……俺は、こんな、俺でも、お前に、してやれることはあるのか…?」
問いかけにロックオンは息を呑んだ。ややあって、そっと、刹那の体を引き寄せた。兄とこんな風に触れ合うのは、それが初めてだった。
「…あるさ。お前にしかできないことが。その時は、よろしくな」
それはきっと、刹那が仇を討つということだったのだろう。今、刹那は確信している。
けれど結局その時というものが来る前に、ロックオンはいなくなってしまった。
明日には帰るからと言い残していくロックオンを、刹那はいつものように見送った。そしてその日の夕食にはロックオンの好きなジャガイモを使った料理を用意して待っていた。
ロックオンは帰ってこなかった。
仕事が長引くことは少なくはない。作りすぎた料理を2日間食べ続けた時、それはやってきた。手紙が届いたのだ。ロックオンから手紙が届くことは初めてだった。嫌な胸騒ぎがした。
『もう戻らない』
ただ、それだけ。手紙にはただそれだけが記されていた。
ロックオンが帰ってこないという現実を、刹那は実にあっさり受け入れた。おいて行かれたのかと、諦めにも似た思いがあったけれど、怒りも哀しみも感じることはなかった。
いつかこんな日が来ることを、どこかで分かっていたのかもしれない。
ぼんやりと家から出ることもなく1週間を過ごした。そして刹那はあの情報屋の事を思い出した。何か困ったことがあれば連絡して、とそう言ったアレルヤのことを。
彼に渡された紙に書かれていた通りの方法を使って、アレルヤに連絡をつけた。三日後にはアレルヤに連絡をとりつけることができ、刹那は、ロックオンと同じ道を選んだ。それは未練だった。同じ道を歩いていればいつかまた会えるような気がしていた。幻想だと何度自分を笑ったか知れない。
仕事を始めて2年が経って、刹那は漸く今のアパートに移り住んだ。もう、誰も帰ってこない部屋で一人でいるのは嫌だった。それこそ未練がましいと思った。刹那は過去を捨てた――つもりだった。
そうしてまた出会う。『ソラン』のことを何もかも忘れたロックオンと。もう昔のように名前で呼んでくれることはない彼と。
今になって漸く、刹那は、ソランは気付いた。自分がどれ程兄に恋焦がれていたのか、と。酷く深く愛してしまっていたのか、ということに。
もう、気付くには遅すぎたのかもしれない。ロックオンは刹那に殺されることを望んでいるのだから。それはアレルヤから話を聞いて直感的に思ったことだ。だけどきっと間違っていない。11年間ずっと傍にいた。ロックオンはソランの世界の総てだった。その自分が間違えるはずがない。
だからこそ刹那は嘆息する。そうして深く憎む。自分から逃げた、兄を。
+++
「ああ、お前が望むようにお前を――殺してやる」
眼前のロックオンを見据え、刹那は低く呟いた。
「……やる気十分ってわけか。なら、殺し合おう。刹那」
ロックオンは、かつてソランがプレゼントしたグローブをつけた手で銃のグリップを握りしめ、笑った。
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