第五章 裏切る者
気付いたら玄関で倒れていた。何処をどう歩いてここまで戻ってきたのか定かではないが、敵に見つかることもなく一応無事に戻ってこられたらしい。
固まった体を無理やり動かして様々な痛みに堪えながら部屋の中へ入る。痛み止めはどこにあっただろうか。ここ最近は怪我をすること自体少なかったからもしかしたら切らしているかもしれない。最悪だと内心悪態を吐く。こんなことなら組織に入ることを了承しなければよかった。けれどそうしたらきっとロックオンに会うこともなかった。
「……くっ」
低く唸る。先人の言葉に可愛さ余って憎さ百倍という言葉があったけれど、言うなればそんな感じだ。許せない。一番強い感情はそれかもしれない。忘れてしまったロックオンが許せない、と。その原因が事故か何かならばまだ心の整理がついただろう。それが、まさか自らの意思で忘れたとなれば堪ったものではない。
もう戻らないのだと分かったその瞬間に、刹那は様々なものを諦めたはずだった。けれど心の奥底では微かな期待があった。もしかしたら奇跡が起こってロックオンが帰ってくるかもしれない。夢もいいところだ。一人きりの部屋の中、扉が開かないことに何度絶望したか知れない。
彼は、ロックオンは、刹那に世界を与えた存在だ。親の顔さえ覚えていない自分が唯一家族と呼べる存在。それなのに、ロックオンは刹那を裏切った。嗚呼、これが憎しみという感情か、と、どこかで納得した。何度も本の中で触れたことはあるけれど、自分自身が感じ取ったことはなかった。憎しみとは、こんなにもどろどろとした重く暗い感情なのか。
「………裏切者」
呟いた声は思いの外冷たい部屋の中に響いた。
漸く辿りついたベッドの上に体を倒し、大きくひとつ深呼吸をする。溜まっていた感情を押し流すように、深く深く息を吐く。
少し前までの日常に戻ればいい。何もかもを諦め、夢も希望も抱くことはなく、過ぎていく時間の中を漂流するような、ただ生きているだけだったあの頃に。
何の為に生きているのだろう。死んでいないから生きているのだ。そう自問自答していた日々。
今度こそ本当に何の望みも持つことはない。最後の望みはもう壊れたのだから。もう望むことは何もない。何も。何ひとつとして。
再び深い眠りに落ちていた刹那の意識を起こしたのは、穏やかに叩かれる扉の音だった。この叩き方をする人物を刹那は知っている。少なくとも敵ではない相手だ。
刹那は体を起こし、覚束ない足取りで玄関扉まで歩くと特に確認することもなく鍵を開けた。
「……不用心だよ」
来客に注意される。客はきょろきょろと辺りを見渡した後、滑りこむように中に入ってきて扉を閉めた。
「起こしちゃったかな」
「…いい」
「うん。ごめん。薬持ってきたよ。水と食料も」
どこまで知っているのだろう。情報屋のアレルヤに半ば抱えられるようにしてベッドへと戻りながら思った。
アレルヤは勝手知ったるようにてきぱきと水を汲んでくると、持ってきた袋の中から薬をいくつか取り出し、刹那へと差し出した。
「飲んで。少しはマシになるはずだから」
言われるがまま薬を口に含み水で押し流す。他人を信用し過ぎかもしれない。もしもアレルヤが裏切っていたならば刹那は自ら毒薬を呑んだことになる。けれどそれならばそれでいい。ここ3年はそういう生き方をしてきたから。
「…思ったより元気そうで安心したよ」
「………元気なものか」
体は元より心まで参っている。それくらいの自覚はあった。
アレルヤは困ったような顔をすると、袋の中から一通の封筒を取り出した。少し大きめの封筒はアレルヤが情報を渡す時によく用いるものだ。
「そんな状態なのにこんなことを言うのは気が引けるんだけど、変な状況で聞くよりはマシだから言うよ?いい?」
何の話をしているのだろうと内心首を傾げる。けれどいつも以上に真剣なアレルヤの瞳に首肯していた。
「もしかしたら君は覚えていないかもしれないけど、随分前…3,4年前かな、それくらいの時に頼まれていた情報が手に入った」
「情報?」
「君の両親に関する情報だ」
両親と言われてもいまいちぱっとしない。顔も覚えていない相手のことだ。
「そんなこと頼んだのか」
「そうだよ。まあ、それに至る経緯は省略するけど。とにかく刹那の両親に関する情報がここに入っている」
アレルヤは封筒をサイドテーブルの上に置いた。後で見ておいてと付け加えて。
「本題は別。刹那の父親の方は18年前に街を出て5年前『外』で病死している。そして母親の方は14年前殺された」
「…殺された…?」
「彼から聞いていない?」
「…………そう言えばそんなことを言っていた気がする」
その時も今もあまり感情は揺れなかった。実感がないからだ。母親を覚えていないから、殺されたと聞かされても赤の他人が誰かに殺されたと同じように、刹那の心には響かない。けれど何故、アレルヤはどこか強張った顔でそれを告げるのだろう。
あ、と閃いた。嫌な予感がする。その先を聞いてはいけない。そんな、気がする。
「彼女は自分の息子を庇って体にいくつもの銃弾を浴びて死んだ」
「息子…」
「そう。君のことだよ」
ぞくりと背筋に悪寒が走る。流れる冷汗は決して痛みの所為ではない。
「激しい銃撃戦だったから誰の流れ弾が当たったかを判別するのは難しかった。けれどできなかったわけじゃない。彼女を大口径の銃を使って殺された。そしてその場で該当する銃を使っていたのは、銃撃戦で唯一生き残った少年だけだった」
「……それ、は」
「…………ロックオン・ストラトス。弱冠12歳にして組織内でもトップクラスの銃の腕を持っていた少年だ」
「嘘だ!」
酷く声を荒げた。けれどアレルヤは否定しない。自分の情報に絶対の自信を持つ情報屋だ。裏付けの取れない情報を他人に流布することはない。その彼が否定しない。それは彼が真実を告げているからに他ならない。けれど、真実を容易に受け止められるとは限らない。
「あいつは…俺の家族を奪ったのに、俺の家族になったって言うのか…!」
「……ロックオンはその時目撃者は全て殺せという任務を請け負っていた。だから、本来ならば君も殺さなければならなかった。それを庇ってあまつさえ自分の元に引き取った理由は分からない。けれどロックオンが庇わなければ君は14年前に死んでいた。それだけは…事実なんだ」
手元にあったシーツを無意識の内に強く握りしめる。そうしなければ強く握りしめた手は爪が皮膚を裂き紅く染まっただろう。
「ロックオンが、俺の仇…?」
与えられた情報を咀嚼するように一言一言置くように呟く。アレルヤは言葉もなく頷いた。
沈黙が落ちる。頭の中がぐちゃぐちゃで何も言えない刹那と、どんな言葉をかければいいのか分からないアレルヤ。けれど先に沈黙を破ったのはアレルヤだった。
「裏付けは取ったからこの情報に間違いはない。けれど僕がこれを今君に話したのには理由があるんだ」
「………」
「これは僕の勘ではあるんだけど、この情報はつい最近『解禁』されたものだ」
「解禁……」
うん、とアレルヤは頷く。
「今までどれだけ洗っても君の両親の情報はどこにもなかった。まるで誰かが意図的に隠しているかのように見つからなかった。それが突然解禁されて僕のような家業の人間ならすぐに分かる所にまで流れてきた。これは明らかに不自然なんだ。まるで誰かが君がロックオンを恨んで殺すことを望んでいるかのように」
恨む。果たして自分は恨んでいるのだろうか。ロックオンを憎んでいるのは間違いない。ならば母親を殺した彼を恨んだところで問題はないのかもしれない。二つの感情はあまりにも似ている。
刹那が考え込む間もアレルヤの言葉は続く。
「その理由はどうもロックオンと繋がりが深かった組織――仮にαと呼ぶね――の重鎮が死んだことみたいだ。彼はロックオンの後見人みたいな人だったからロックオンが今の組織――こっちもβとするよ――に移った時も深追いしないよう命じてロックオンの身柄を護っていたんだ。そもそもロックオンがβに所属する原因となった事件もαでの内紛が理由だったから、内紛勝利者の彼としてはロックオンを護りやすかったんだと思う。そして今、彼が死んだことにより反対勢力が盛り返してきた。それを機にαとβの対立が表面化し、β内の謀反人たちがαの連中と内通しているみたいなんだ。現在αの主力となっているメンバーからしたら、ロックオンは殺し損ねた目の上のたんこぶに近い存在だから、αの標的となっている」
「……俺たちを陥れた連中はティエリアを狙っていたんじゃなかったのか」
「勿論。彼らが狙っていたのはティエリアだし、その作戦中にティエリアを暗殺しようとして失敗している。巻き込まれたのが君とロックオンというのは悪い偶然だよ」
偶然。言うなればロックオンが刹那の母親を殺したのも悪い偶然なのだろう。ならば自分は悪い偶然の積み重ねの上でロックオンを憎んでいるのか。
「僕が今この話を君にしたのは、君のロックオンへの憎悪が利用されないためなんだ。母親を殺した彼を君が如何思うか僕には分からないし、これから君が如何するのかも分からない。けれどそれは君の感情だ。他人に利用されていいものじゃない」
例えば、アレルヤ以外の誰かにロックオンが仇であるというその情報だけをもたらされたなら刹那はどうしただろう。その誰かの言葉通りロックオンを殺そうとするのだろうか。憎しみに任せて、殺す。本当に?
どんどん頭が冷えていく。そして辿りついた答えに刹那は笑いだしそうだった。
「…………アレルヤ」
「なに?」
「情報を流して欲しい」
アレルヤの持ってきた薬を呑んで大分楽になった体を起こす。ベッドサイドから離れベッドの上半分を持ちあげる。ぽかりと空いたそのスペースには予備のナイフや銃などが収められていた。それを初めて見たらしいアレルヤは驚きに軽く息を呑む。ベッドの下から武器が出てきたことだけにこの男が驚いたのではないことくらい、他人の思考を読むことを本業としていない刹那でも分かる。
「…なにをする気?」
「俺は――」
――ロックオンを殺しに行く
はっきりと、刹那は情報屋に告げた。
+++
以前形的には所属していた組織から連絡を受けたのは、刹那が出て行った翌日のことだった。タイプライターで打たれたらしい文字に目を通し、久しく吸っていなかった煙草へと手を伸ばした。
煙草を止めたのはいつだったろう。記憶が確かなら吸い始めたのはまだ十代の頃だった。何かがきっかけでそれを一度止めて、再び吸いだしたのは――3年前か。
結構な枚数に渡って綴られた文字を要約するならこうだ。
『お前が昔失敗した仕事のツケが回ってきた。尻拭いは自分でしろ。それが出来たならお前を再び組織に迎え入れてやる。お前が今所属する組織は次期に潰れる。命が惜しいなら従え』
煙草を灰皿ですり潰し、テーブルの上に広げた銃をひとつひとつ丁寧にチェックしてそれぞれホルスターに収めた。そして一人を殺すには十分すぎる程の銃弾を腰のポシェットにしまいこむ。準備が全て整ったことを確認し、再び懐を漁って煙草を取り出した。マッチで火を点しまた紫煙を吐きだす。
懐かしい、声が、聞こえた気がした。喫煙を咎めるでもなくただ、意味を問うた。それだけなのに妙に気まずくなって、その子の目の前で残っていた煙草全てをゴミ箱に捨てた。よし、と頷く自分の後ろでその子はただ目をまるくして。嗚呼、何て、懐かしい。
「……お前は誰なんだろうな」
呟きに苦笑が混じる。昨日から何度も何度もリフレインするものがある。煩わしい。だからその煩わしさを消しに行く。壊しに行く。何を犠牲にしようとも。
「行くか」
自分を鼓舞するように呟いて煙草を噛んだまま部屋を出た。色褪せた世界を見つめるその瞳は、かつて彼についた通り名のとおり、さながら死神のようだった。
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