走っていた。長屋までの大して長くは無い距離を全力で走っていた。はっ、はっ、荒い呼吸音が耳につく。夜の静寂が痛くて、無音の月明かりが冷たくて、目元がじんわりと熱を帯びてくる。
半ば飛び込むように部屋に入ると、乱暴に開いた襖の大きな音に同室者の2人がびくりと飛び起きた。何だ何だと視線を彷徨わせる2人を他所に、一番奥の自分の布団へと滑り込む。頭からかけ布団を被って閉じこもると、部屋に小さな明かりが点った。
「あれ? 作?」
「…作?」
友人たちの呼び声に返事をする余裕もなく、乱れた呼吸を整えながらただ体を振るわせた。
「如何したんだ? 今日は委員会で遅くなるって言ってたから先に寝ていたんだが、それを怒ってるのか?」
「……作、泣いてるのか?」
「何!? そうなのか、作!?」
ぺらっと遠慮しがちに布団が剥がされる。ぼんやりとした明かりはそれでも目にまぶしくて、ぎゅうと目に力を入れた。
「あ、本当だ……如何したんだ? 作兵衛。また食満先輩に怒られたのか?」
ぶんぶんと首を横に振る。けれどその名前を聞いたらまた、涙が溢れてきた。
「うわっ!? ご、ごめん、作…!」
慌てたような声。如何してお前がそんなにうろたえるのかと笑ってやることも出来ずに、けれど本当のことを言うことも出来なくて、小さな子供のように体をまるめた。
勢いが余った。他の子達を見送った後、最終点検をする横顔に、お前もご苦労様と笑う声色に、口が滑った。
『好きです!』
思わず叫んだ。言ってしまってから自分の失態に気づき、体が固まった。きょとんとした、どこか驚いたような瞳に今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られた。けれどあの人は用具委員長は、ただこちらへやってきて、ぽんと作兵衛の頭に手を置いた。
『ありがとうな』
頭を鈍器で殴られたような気分になった。一瞬にしてたくさんのことが頭に浮かんで、知らずの内に涙がぼろぼろ零れ落ちていた。
一緒なのだと直感したのだ。この人にとって自分は他の下級生たちと同じなのだと。ただの、子供にすぎないのだと。だから彼は子供の恋だと思ってただ、ありがとうと言うのだと。それが分かると悔しくて哀しくて辛くて、どうしようもなかった。
笑われなかっただけましなのだろうと思う。微笑んではいたけれど。あれはそういう笑みじゃない。
少なくともちゃんと、一度は受け止めてくれた。それ以上もそれ以下もないけれど。だからこの人は本当に優しい人なのだと思う。だからどうしようもなく憧れる。焦がれる。
『あ、おい! 富松!』
彼の制止の声も聞かず、少しだけやり残した仕事も放り出して、作兵衛は用具倉庫から逃げ出した。
もう何が理由で泣いていたのか分からないほどで、それでも他の事を考えることも出来ずにただ泣き続けたら、いつのまにか眠ってしまっていた。朝起きたら騒いでいた2人は何故か作兵衛を真ん中にして寝ていて、友人たちの優しさにくすぐったい思いをした。
泣きはらした目元がひりひりと痛かった。
+
「きっと彼は本気で君に恋してるんだよ」
何故泣かせてしまったのかと、同室者の友人に訊ねてみると、彼は事も無げに言ってのけた。
「だけどあいつはまだ12だぞ」
自分の12歳の頃を思い返してみる。恋だの何だの、惚れた腫れたも考えたことも無かった。
「君と富松を一緒にしては駄目だよ、留三郎」
「…それはどういう意味だ伊作」
「富松は君より繊細だってことだよ」
軽く貶されているような気もするが、否定することも出来ずただ沈黙する。けれどだからと言って、あの後輩の言葉が本気だったと分かったとして、今更自分に何ができると言うのか。
「それは君が考えるしかないんじゃないかな?」
友人の尤もな言葉に、留三郎はその後2週間ほど悩むこととなる。
留←作っていいなーと思うのです。何となく。
作兵衛はその後食満先輩の顔を見る度にびくびくして(つまりいつも通り)、先輩は作兵衛以上に挙動不審になりました。
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