カチン。と空気が凍った音がした。気がした。かく言う自分もぴたりと動きを止め、目の前の光景を凝視している。けれど注目を浴びる2人が至って普段通りに振舞うものだから、もしかしてこちらの方がおかしいのでは、という錯覚まで生まれてくる。あれ。でもこれって本当に錯覚なのか。
何が起こったのか、今一度思い出してみよう。それはいつも通りの朝。いつものように服を着替えて顔を洗って食堂へとやって来た。すると親しい顔が既に席についていたので、その2人の前に膳を持って移動し、おはようと声をかけると、2人ともおはようと返した。
しかしその片方は、まだ眠いのか低血圧なのかぼんやりとした様子で、けれど黙々と食事をしていた。それも結構見慣れた光景であったので、兵助また?なんて言って笑ったら、隣にいた三郎が兵助にちょっかいだそうと動いたのが見えたので、鳩尾に肘を叩き込んだ。
三郎がぐおっとうめく中、席についていただきます、と手を合わした。三郎も遅れてそれにならった。ちょっと腹が痛そうだったが。
それから4人他愛無い話をした。あれ、八左衛門は来てないの?あいつなら俺たちと入れ替わりに出て行ったよ。動物の世話があるとかって。へぇそうなんだ。ハチらしいね。いっそ飼育小屋で生活したらいいんじゃないか、あいつ。もう、三郎も変なこと言うなよ。でもあいつなら喜ぶかも。むしろ先生が止めるよな。
笑いを交えながら、着々と食事は進んでいって、目の前の2人は食後のお茶に取り掛かったくらいの時、不意に勘右衛門が首を傾げた。あれ?兵助ちょっととまって。んー?兵助本当寝惚けてるなぁ。ここまでぼけぼけしてるのは珍しいね。いやいやそうじゃなくて。ぺろり。ん?ん?
目の前の2人の奇行に2人して同時に首を傾げた。恐らく三郎も雷蔵の真似をしようとしたわけではないだろう。素で同じ反応をしてしまったのだ。勘右衛門が兵助の唇をぺろりと舐めるのを見て。
以上、回想終了。
うん。やっぱり如何考えてもおかしいのはあの2人の方だ。白昼堂々(朝だけど)人の唇を舐めるなんてありえない。ましてや公衆の面前で!ほら見たことか、運悪く目撃してしまった下級生が硬直してしまっている。後で誤解を解いておかないと、というか誤解も正解もあるのだろうか。
「兵助、唇切れてるよ」
「……切れてるなら舐めちゃ駄目だろ、勘右衛門」
至極尤もな意見を述べる兵助は漸く目が覚めたらしく、欠伸ひとつをした後再び茶をすすった。それから、硬直する周囲を見回す。
「? みんなどうかしたのか?」
「さあ?」
「いやいやいやいや、お前らのせいだから」
逸早く立ち直った――というのだろうかこの場合――三郎が的確に突っ込む。けれど2人は、俺たち何かした?とでも言いたげに首を傾げている。やっぱりおかしいのは、自分の常識だったのだろうかと雷蔵は再び悩み始めた。
「友の唇が切れていたからと言って、突然舐めるのは如何なんだ、尾浜勘右衛門」
「え? 普通じゃないの? なぁ、兵助」
「さあ? 少なくともやるのは勘ちゃんくらいだけど。まぁ、いいんじゃないか?」
「いや待って。待ってください、兵助さん。勘右衛門しかしないという所で疑問を持とう。あーた、どんだけ勘右衛門のこと信頼してんの」
「お前の2倍くらいは」
「キーッ、何ですって!? そこにおなりなさい、勘右衛門!」
「三郎、三郎。何か途中からおかしくなってきてるから」
何故か(どこからともなく)取り出した手ぬぐいを噛みしめ始めた三郎の手をやんわりと押さえる。目の前の2人はきょとんとするばかり。
「えーと……口を吸うのって恋人同士がすることでしょ? だから、舐めるのだってそうじゃないのかって、思うんだけど……2人は恋人同士、だったっけ…?」
一応、念の為確認を入れてみる。後ろで下級生たちが先輩ファイトとか言う声が聞こえた気がした。がんばれ僕、と自分を奮い立たせてみる。
「な!? 俺がいつ勘右衛門なんかと!」
「…兵助ー、いくらなんでも俺なんかと、という言い方は酷いんじゃないかな。確かに俺はかなりのブランク的なあれがあってキャラ立ちも云々かんぬん」
「あ、ごめん……」
うん。どうやら恋人同士ではないらしい。どうしよう。むしろ恋人であってくれた方が事態はまるく収まったかもしれない。下級生もいるんだから、あんまりこういうところでべたべたしちゃだめだよ、とか何とか言って。本当に如何しようかと思い、救いを求めるように隣の友人へと視線を移す、と彼の背後でめらめらと燃える炎が見えた。
「兵助!」
「はい!」
突然立ち上がって叫んだ友人に、思わずいい返事をしてしまう兵助。びしっと姿勢を正して目の前の三郎を見上げている。何故か勘右衛門までつられていた。
「お前の恋人は私だろう!」
お前ちょっと何言い出してんの!?と叫びそうになった。だのに。
「ばっ……こんな所で何言ってるんだよお前!!」
あろうことか、その言葉を受けた友人は頬をぽっと赤らめてしまったのだ。どこぞの生娘よろしく。それには流石の勘右衛門も驚きに固まり、かく言う雷蔵もぴくりとも動けなかった。周囲の下級生たちとて同じだ。
「もういったいどういうことなのー!?」
+
「うーん…うーーん…」
「凄くうなされてるな」
「変な夢でも見てるんじゃないか?」
「しかし雷蔵も運が悪かったよな。まさか落ちていた学園町先生のフィギュアにつまずいて転んだ先にあった綾部の掘った落とし穴に落ちて七松先輩のいけどんアタックを頭でレシーブして気絶するなんて」
「不運委員会並みの不運だね」
「……君たち、それをここ(保健室)で言うのかい…?」
「あ、すみません不運委員長」
「三郎、それわざとだろう…」
オチが旅に出たから無理やり夢オチ。
まさか自分が三郎に頬を赤らめる兵助を書く日が来るとは思いにも寄らなかった。
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