恋は麻薬だとはよく言ったものだ。気付けばアーサーは暇があれば何かと理由をつけてアントーニョのもとを訪れていた。暴力を振るうでもなく、尋問をするでもなく。ただその瞳に捕らわれることが快楽だった。
アントーニョは何度もアーサーに愛を囁いた。何度も何度も繰り返し。緑の瞳に愛を潜めて。囁いた。まるでフランシスのようだと言えば、心底気分を害したようだった。
「何言うてんの。あいつと違って俺が愛してるのはお前だけやで」
そう言ってアントーニョはアーサーの額にキスを落とした。アントーニョは優しく、暖かかった。ああ、これが太陽なのだと錯覚した。心地よい、時間だった。
+++
「おい、クズ」
自国の宮殿でアーサーをこのように呼ぶものなど、一人しか思い当らなかった。ひとつ深呼吸をして立ち止り、ゆっくりと振り返る。
「何…ですか。兄さん」
久々に見たはずの彼の瞳がずっと傍にあったような錯覚を覚える。脳裏にチラつく色と、自身を見下ろす瞳との温度差に息が詰まるようにさえ、思えて。
「お前、いつまであいつを生かしとくつもりだよ」
こつ、と靴音を鳴らして兄は一歩こちらへと近寄る。つられるように一歩、後ずさりしそうになったが気力でそれを押しとどめた。本能に刷り込まれた恐怖に呑みこまれそうになる。
「聞けば随分とあいつに入れ込んでるそうじゃないか。お前、趣味悪いな」
せせら笑う兄の瞳がすぐ近くにある。暗い緑の光は怒りを湛え、すっと細められる。
「敵に情をかけるなって、教えただろ? アーサー」
何か言おうと口を開いたけれど、言葉を必要としていなかった兄は力の限りアーサーの頬を殴りつけた。
「情のある奴は弱い。その内寝首掻かれんぞ、この腐れ弟!」
強か床に打ちつけた体も、兄の言葉が染み込む頭も、悲鳴のような痛みを上げていた。
+++
兄が立ち去った後、アーサーは無意識に地下牢を訪れていた。扉を開けると、すぐに驚いたような姿を見つける。
「どないしたん? 酷い顔やな」
アントーニョは目を大きく見開き、問いかけてくる。アーサーは何も言わず、言えず、ただ彼の隣に腰を下ろす。頭痛が止まない。頭がくらくらする。
同じ色の瞳が全く反対の言葉を紡ぐ。憎悪し、慈愛する。どんどん境界線が曖昧になっていく。何が、ホントウなのか、と。
「なあ、アーサー。この枷外してくれへん?」
突然の言葉に、アーサーはバッと顔を上げる。
「…ダメだ。捕虜の枷を外すほど……堕ちちゃいない」
首を振った。それなのに、自身の手がポケットの中で冷たいものを握りしめていることに気づき、驚くと同時に歯噛みする。そしてもう一度大きく首を振って目をそらした。
「お願いや。アーサー。そんな状態のお前を放っておけるほど、俺は辛抱強くないねん。だから、抱きしめさせて? な?」
恐る恐る見上げれば、いつもの緑の瞳がそこにはあった。あの人とは違い、自身を愛してくれる男の瞳が。大丈夫。誰かが言った。こいつなら、大丈夫だと。囁いた。
ごくり、と生唾を飲み込む。そしてアーサーは、ポケットから鍵を取り出した。最初に足の枷を外し、次に首輪を、最後に手枷を外した。アントーニョは手首を振ったり首を曲げたりと、ゆっくり体をほぐしていく。そして再びアーサーへと向き直ると、にっこりとほほ笑んだ。
ぞくっと背筋に悪寒が走った時、しくじったと直感した。
最初は何が起きたのか分からなかった。アントーニョが手を伸ばしてきたかと思うと、全身が激しい痛みに襲われた。床に打ちつけられたのだと気付くのに少し遅れた。強か打ちつけた頭がぐわんと鳴っている。
「ぐっ……」
身動きが取れないまま、うつ伏せにされ両手を背でまとめられ、重い圧力をかけられた。
「まさか、こんなに上手くいくとは思わんかったわ」
愉快気なアントーニョの声に、アーサーはすぐさま悟った。
「騙したのか!」
「そうやで? よう考えれば分かることやのになぁ。ほんま、人にもひとつくらい隙があるもんやね」
アントーニョの笑い声が頭に響く。吐き気がする。
「鍵は……ああ、これやね。全く、油断大敵やで? イングラテラ」
アントーニョは先程まで己を捕らえていた枷をアーサーにかけると、そのまま素早く牢から逃げ出した。
「……………」
アーサーは瞳を閉じた。不思議と心は穏やかだった。最早何も、感じなかった。
+++
捕虜が脱走して一月後、アーサーはまたもや廊下でばったり兄と出くわした。
「よう。捕虜に逃げられるとは、お前も随分間の抜けたことやってんじゃねぇか」
「……………」
「チッ。何とか言えよ、イングランド」
反応しないアーサーに兄が胸倉を掴む。近づいて来た緑の瞳に、アーサーは顔をしかめた。
「放せよ、スコットランド」
兄の目が僅かに見開かれる。そして忌々しげに舌打ちし、アーサーを解放した。
「…つまんねぇ」
ぼそりと呟いて、兄はそのまま去って行った。
アーサーは乱れた服を整えると、再び歩き始めた。
気付いたことが二つある。ひとつは緑の瞳には憎悪の感情が一番よく似合うということ。そしてもうひとつは、己の瞳もまた、彼らと同じ色を宿しているのだということ。
PR