それは膨大な時間の中に埋もれてしまった取るに足りない時間だった。歴史の教科書を紐解いても、一言二言あればいい方で、他国の人間はきっと知らないのだろう。当の本人たちですら忘れていたのだから。
たまたま倉庫の掃除をしていて、古ぼけた木の箱を見つけたのがきっかけ。子供が宝物をしまっておくような、質素なその箱を何とはなしに開けてみると、薄汚れた指輪がころんと転がっていた。指で摘まみあげてみる。アンティークといっても過言ではないその指輪は、とてもシンプルで、金のリングに紋様が描かれているだけのものだった。
その小さな宝物は、けれど身に覚えのない物で首を傾げながら光にすかしてみる。
「ん? えらい古いもん見つけたな」
「!?」
突然、肩口ににゅっと出てきた頭にびくりと肩を震わせる。慌てて飛び退くと、弾みで指輪がつるりと手の中から滑り落ちてしまった。けれど、「お」なんて間の抜けた声を出して、感傷の乱入者が上手に受け止めた。
「そないに乱暴に扱ったら、壊れてまうで?」
「誰の所為だと思ってんだよ!」
「んー…それにしても、ほんま懐かしいなぁ」
「聞けよ!」
これだからこの男は苦手なのだ。ラテン系特有のリズムに、いっつも調子を狂わせられる。確かにそれはこの男の長所のひとつでもあるのだろうが。いや、そんなこと知ったことではない。
「……それ、何なのか知ってんのかよ」
「知ってんで。これ、俺がお前にあげた指輪やもん」
「は?」
思考回路が一度停止した。落ち着け自分。このふざけたスペイン人の言葉を噛み砕いて理解しし、膨大な記憶の中から該当項目をサルベージするのだ。俺ならできる。そう暗示をかけて記憶を掘り起こす。しかし分からない。いったいいつの話だ。
「 」
見かねたらしい妖精が耳元でこそこそと囁いてくれたのは、あまりにも遠く短い日々のこと。そう言えばそんなこともあったなと、思い出させてくれた彼女にそっと礼を言ってはた、と要らない記憶まで思い出してしまった。
「…………」
「どうかしたん?」
「…いや、何でもない」
多分能天気なこの男は忘れているだろう。あんなバカみたいな蜜月のことなど。正直、思い出したくなかった。多分、青春時代にしたやんちゃを思い出して赤面する大人と同じ気分だ。本当にもう忘れてしまうほど昔の青い春というか、思春期というか、何というかその辺りのややこしいお年頃のことだ。忘れよう。そうしよう。かたく胸に誓う。
「なぁ、アーサー」
「あ?」
まだ何か用かと目の前の男を睨みつける。けれどこちらの怒気など気付きもしない男は、しげしげと指輪を眺めている。
「これ、大分汚れてもうたよな」
「…そりゃ、数百年前だからな」
「多分サイズも合わんやろうし」
何が言いたいのだと視線に含ませてみるも、やはり男は気付かない。それこそ、すごんでいるだけ阿呆らしく思えてきた。そもそもどうしてこんな男の相手を今しなければならないのか。観光だか何だか知らないが、この男はぶらりとやって来て今に至る。こちらは暇ではなかったが久々の休暇だったので、倉庫の整理をしようとしたらついて来た。まったくもって意味が分からない。
「とりあえず、はいこれ」
はい、といって手を差し出されたので条件反射で受け取ると、そこには先程よりいささか綺麗になった指輪が。
「ん? これは……」
「こっちは直してくるから、代わりにそれ預かっといて」
見れば、先程木箱から取り出した指輪は未だ男の手の中にあり、自身が手にしたのはその指輪より少し大きくて光沢を保ったままのもの。あの指輪はそもそもペアリングであり、その片方を持っている者は言わずもがな。長い時間の中のほんの一瞬、心を通わせた相手。
「な、んのつもりだ」
平常心平常心と心の中で唱える。気を緩めてはいけない。上辺だけでも平静を保っていれば、この男をやりすごすことはできるから。
「何って、プロポーズやけど。二回目の」
頭が痛い。突然何を言い出すのかこの馬鹿は。
アーサーは呆れてものが言えないという態度を装って、アントーニョから目を逸らす。心臓の音が五月蠅い。ああもう分かっているとも。みっともないほど自身が赤面していることなど。耳まで熱い。
どうやらずっと大切に持ち歩いていたらしい指輪を強く握りしめる。いっそ、投げ返してやればよかった。それができない。どこぞの髭男相手なら簡単なのに。眩暈がしそうな程まっすぐで純真な男相手では。
嗚呼、だからこの男は苦手なのだ。
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