砦の門番に通行許可証を提示すると、髭をはやした門番はしかめっ面をした。その表情に旅人は背筋を正し警戒心を持つも、門番はすぐにいやいやと両手を振る。
「そう警戒してくれるな。何もあんたを通さないって言うわけじゃない。今来たのはタイミングが悪かったなというだけの話さ」
「タイミングが悪い?」
「そうなんだよ。今、出国はできないんだ」
髭の門番の隣に立っていた、若い門番が苦笑いを浮かべる。旅人は警戒を解き、二人が話を続けるのを待った。
「実はね、今朝方からあちら側は深い霧が出ているのさ」
「この地域では稀にあることなんだけどな。けど、右も左も分からないような濃霧で危険だから、霧が晴れるまでは出国を禁止しているんだ」
未開の地と呼ばれる南の大地。ただでさえ地図の無いその土地が深い霧で覆われているのなら、誰も好んで足を踏み入れることはないだろう。それでも尚、禁止としたのは平気だと軽い気持ちで踏み入って、屍となった輩がいたからだろうか。
「…はは。兄さんは中々勘がいいみたいだね」
こちらの思考を読んだらしい髭の門番はひとつ頷いた。
「兄さんの推測通りだよ。霧が晴れたら、万が一のために俺達警備兵はそこいらを見て回るんだがね、この濃霧の中出国した連中は、大体が死んでいる。砦を抜けた先に崖があってね。そこに落ちる奴もいりゃ、野生の動物に襲われちまう奴もいる。だから国は濃霧時の出国禁止を言い渡した。出国できなけりゃ、霧が晴れた後の俺らの仕事もなくなるからなぁ。願ったり叶ったりだよ」
「それでも未だに濃霧の中を突き進む人もいるけどな」
「………霧はどれくらいで晴れるんだ?」
「さてなぁ。5日ってのが最長記録だが、半日で晴れた時もあるらしいからな」
5日という日数に、旅人は眉をひそめた。それはあの声が指定した日数と同じ。ただの偶然なのだろうか。森から解放されることはないと言った少年の言葉が、再び頭の中に響く。この濃霧もあの声の――森の仕業なのだろうか。否、そのような超常現象が起こるはずがない。
だが、旅人はその可能性を否定しきれないでいた。何故なら既に旅人は超常現象と呼べるものを目にしてしまったからだ。深い森と、水晶。そして、得体の知れない少年の姿。
「とりあえず、5日の間は砦内の宿泊施設に泊まるといい。お前さんと同じような連中が集まるから」
「……そうだな。そうさせてもらう」
旅人は門番から通行許可証を受け取り、彼らが開いた扉をくぐって砦の中へと入った。所々薄汚れた砦は、砦とは名ばかりだと専らの噂だった。この南には国が存在していないらしく、砦が砦の役割を果たすことは今まで一度もない。それでも海の向こうの見えない脅威に警戒して気付かれたのがこの砦だった。
国はないのに国境はある。それは不思議なことだったが、この国の民は皆、そういうものだと受け止めていた。あの砦の先は自分たちの領土ではないのだと。実際、砦を抜けた先は荒野が続いていると噂され――門番が言うには崖があり、生物も生息しているらしいが――、そこに踏み入るのは何の利もないらしい。
それでも旅人たちが砦を超えて進むのは、地平線の果てにあるという港町を目指すためだ。その港町から船に乗り別の大陸へと渡る。それが旅人たちの目的だった。彼らが国を出る理由はいくつかある。未だ見ぬ地へ行きたいと考える者。商魂逞しい商人。帝国から逃れる罪人。そして、何らかの理由で国にいられなくなった者。
砦内を兵士に道を訊ねながら進んだ旅人は、漸く件の宿泊施設へと辿りついた。既にそこには2人組の商人と1人の女がいた。女は旅人の姿に気がつくと、笑顔で駆け寄って来た。
「いらっしゃい。貴方は1人旅?」
「ああ」
「じゃあ、あっちの隅のベッドで休んでちょうだい」
その口ぶりから、どうやら女はこの宿泊施設を仕切る人らしい。若女将といったところだろうかと考えていると、「女将ー」と商人たちが彼女を呼んだ。
「はあい」
女将は彼らのもとへ駆け寄る。恰幅のいい男2人は、つまらなそうにテーブルにもたれかかって、酒を飲んでいるようだった。
「この霧は何時になったら晴れるんだよ」
「そうねぇ。長くて5日。短くて半日ね」
「大体よ、何で霧ごときで足止め喰らわなきゃなんねぇんだよ」
足止めを食らったのがよっぽど気に障ったらしいその男は、苛立ちをジョッキにぶつけながら嘆いた。それを見た女将は慌てるでもなくあっけらかんと笑い飛ばした。
「仕方ないわ。森の呪いに殺されたいのなら別だけど」
「森の呪い!?」
思わず口を挟んでしまったのは旅人である。それには女将も2人の商人も驚いて視線を寄こす。しまったと後悔したのは後の祭りで、旅人はがしがしと乱暴に頭をかき、3人の元へと足を向けた。
「森の呪いっていうのはどういうことなんだ」
「言葉の通りさ。あの霧は森の呪いなんだよ」
「ただの迷信だろ」
「そうだぜ」
野次を入れる商人たちに、女将は目をつりあげバンとテーブルを叩いた。酒で赤らんでいた商人たちの顔からさっと血の気が引き、怯えた表情で女将を見上げる。
「馬鹿にしちゃいけないよ。ここいらに住んでいる奴なら皆知ってる話さ」
「どういうことなんだ?」
旅人は訊ねた。嫌な予感に背筋が寒くなる。女将は旅人へと向き直ると、軽く肩をすくめる。
「この辺りはね、昔はでっかい森だったのさ。森と周辺の人々は共存していた。けれどある時森は、人々を道ずれに姿を消した。それ以来、度々この地を覆う濃霧は、森の呪いだって言われている」
女将の話に更に怯える商人たちをよそに、旅人はぐいっと身を乗り出した。
「その話、詳しく聞かせてもらえないか」
PR