その森は古よりずっとその場所に在り、人々の生活を支える生命の源だと考えられていた。森から与えられる不思議な力で人々は健やかな毎日を送り、森の加護のおかげで周辺の村々は大きな災厄に見舞われることなく永らく平和を享受していた。
その風習が始まった時期は定かではない。ただ、ひとつのきっかけがあったと人々は考えていた。
ある日、森の近隣にある村に住む少年が森に迷い込んだ。当時、森は神のおわす場所とされ森に入ることは禁忌とされていたため、夜になって少年が戻ってこなくても、村長の命により誰ひとりとして森に近づくことは許されなかった。少年の親兄弟は村長に泣きついたが、村長はたった1人の子どもの命より、自身の村や他の村の安全が最優先だと彼らに説いて聞かせ、結局3日、1週間経てども子どもは帰ってはこなかった。
誰かが言った。あの子は森に喰われたのだと。それまでずっと森を敬ってきた人々は、途端に森に対して恐怖心を抱き始める。敬うことと恐れることは同意だった。人々の心は恐怖へと傾き、誰ひとりとして森に近づく者はいなくなった。
それから数年の後、村を疫病が襲った。当時の村長は少年が森に「喰われた」時に長を務めていた者の息子だった。彼は父親から森の恐怖について聞かされていたので、この疫病は森のたたりだと考え始めた。森がお怒りになっている。だから私達に疫病という苦しみを与えるのだと。
村長と、彼の側近たちは如何にして森の怒りを治めようかと考えた。ある者が森に供物を与えようと言った。森を喜ばせ機嫌を取るのだ。では供物は何がいいだろう。備蓄してある穀物はどうだろう。いや、生き物の方がいいかもしれない。村一番の雌鶏を供えてみてはどうだろう。いやいや、雌鶏も鳥の仲間。彼の森の中に生息するものを捧げたとて、そこに意味はないだろう。では、何とする。何を供物とする。
死を間近にした人々の考えは常軌を逸していた。彼らは自分たちがまとな思考でないことに気づいてはいなかった。だからこそ、村長は言えたのだ。
「供物は、人がよいだろう」
我らの中から犠牲を出すことによって、森は我らの想いの丈を知るだろう。我らが身を裂かれるような思いをして差し出すモノ。それこそが供物に相応しい。声高に叫ぶ村長に、人々は気圧された。そして次第に彼の言葉に賛同し、村の会議場に集まった者は皆、人を生贄として差し出すことに同意した。
だが、問題があった。
「では誰を生贄にするのだ」
「村一番の美人を差し出してはどうだろう」
「しかし、人と森の価値観が同じとは限らぬ。我らにとっての美しさは、森にとっての醜さかも知れぬ」
「最初に森が喰らったのは少年だった。故に、それと同じ年頃の子どもを差し出してはどうだろう」
「その子どもの味が『思わしくなかったから』森は我らを祟ったのかも知れぬ」
皆が皆、口々に意見を述べた。彼ら皆が共通して持っていたのは、決して自分の身内だけは生贄にするまいという強い思い。我が身の大切さだった。
あわや平行線を辿ろうとする会議。その中で、村長は低い声で告げた。
「我が娘を生贄に。あれは疫病が起こった月の生まれ。森が寄こせと命じているのかも知れぬ」
村長の娘は、村一番の美人だった。器量も良く誰からも愛されるその娘は、来月に結婚を控えていた。成程確かに、彼女を生贄として差し出すことはこの村の皆が心を痛めることである。それだけの痛みを負わなければ、この村は救われない。何よりも、英断を下したのは村長自身であった。村長の心中を慮って制止するものはおれど、真っ向から反対するものはいなかった。
そうして村長の娘は、森に生贄として差し出された。
人々は娘に眠り薬を飲ませ、籠の中に娘を閉じ込めた。そうして仮面をつけた者たちが籠を森の中へと運び、およそ中心付近にそれを置いて一目散に逃げ去った。
数日後、星占いの婆の元に何かが憑依した。それに気付いたのは婆の弟子である女だった。
「ヒトよ」
いつものしわがれた声のはずなのに、婆の言葉は頭に直接響くような低音で、その場にいた女と村長は固唾を飲んで婆を見つめた。
「アレは何だ」
「アレ、とは」
村長が震える己を知ったしながら訊ねた。婆に憑依した何者かは目を細め、つぃとある方角を指差した。
「お前たちが先日、我の中に置いて行った娘のことだ」
婆の弟子も村長も、その言葉にハッとした。この不思議な力がある婆に憑依しているのは森の意思なのだと、二人は即座に気付いた。ここで機嫌を損ねてはいけない。身を切る思いで大事な愛娘を差し出したのだから。
「貴方は、彼の森の意思ですな?」
「ヒトから見ればそうなのだろう」
曖昧な物言いではあったが、村長は予想が当たっていることを確信し、慎重に話を続けた。
「先日貴方様に捧げたのは生贄でございます」
「イケニエとは何だ」
「貴方様の腹を満たすものでございます」
「我の腹を満たす…。それが、お前たちに何の益がある」
「貴方様にお怒りを解いて頂き、我々に今一度救いの手を差し伸べてほしいのです」
村長は真摯に婆を――その奥にいる森の意思を見つめた。下手を打ってはいけない。己の背には何十人もの民の命がかかっているのだ。村長は何度も己を叱咤し、未知なる存在と対峙し続けた。
「お前たちはイケニエを捧げ、我がお前たちの願いを聞き入れる、と?」
「左様でございます」
暫し沈黙が落ちた。村長は嫌な汗が背筋を滝のように流れていくのを感じた。婆の弟子は村長と師の様子をおろおろと見つめるばかり。
やがて、婆は尊大にひとつ頷いた。
「いいだろう。お前たちの願いを叶えてやろう」
「ありがとうございます!」
村長が叫ぶや否や、婆の体が糸の切れた人形のようにばたりと床に倒れた。慌てて駆け寄った弟子は師が気絶しているだけだということに気づき、ほっと胸を撫で下ろした。その後ろで村長もまた、腰を抜かして座りこんでいた。
翌日には疫病にかかっていた人々は嘘のように快復し、誰もが奇跡に沸き立った。
それが、村と森との契約だった。契約の話は他の村にもすぐに知れ渡り、森の近くの村は皆、協定を組むことになった。その協定とは年に一度森に生贄を捧げること。それにより安全な生活をあまねく享受すること。
何年、何十年、何百年もの時が流れた。各村は決められた年に森へ生贄を供えた。生贄の選抜方法は村によって違ったが、最初に生贄を捧げた村では、最初の生贄――村長の娘と同じ月に生まれたものを生贄として宿命づけることにした。故に、女たちはその月に子どもを産むことを厭い、次第に生贄の数は減少していった。そして村長は、『生贄の月』の前の月も『生贄の月』として定めた。それは人々の反感を買ったが、生贄を供えないことの恐怖を思えば、皆閉口した。
そんなある時、ある村を流行り病が襲い村人たちはあっと言う間に死に絶えた。今まで与えられていた森の加護が弱まったのだと人々は考え、より多くの生贄をと、年に2回、年に3回、年に4回と生贄の数を増やしていった。森が要求したのではない。人々が恐れ、安全策を講じたのだ。これだけの生贄を捧げていれば、森もより強く自分たちを護ってくれるに違いない。人々はそう考えた。
しかし、村々は決して大きい村ではない。いくら複数の村が協力して生贄を出しているとはいえ、年に4人もを生贄として失うことは、即座に村の人口減少へと繋がった。そしてある村は遠い村や街から子どもを攫って来て、その子を生贄として差し出すようになった。また別の村は、訪れてくる旅人を生け捕って、生贄として差し出すようになった。
皆が皆、必死だった。自分たちが生き延びるために手段は選ばなかった。見えない恐怖に怯え、死から逃れられるためだったなら何だってやった。
それでも森は年々、否、日ごとに力を弱めているようだった。村が飢饉や疫病に襲われても、戦争に巻き込まれても、森は全く救いの手を差し伸べることはなかった。人々はより慌てふためき戦慄した。今まで森を頼りに生きてきた人々は、森なしではどうやって生きて行けばいいのか分からなかったのだ。
最初に生贄を捧げた村は、森の意思が憑依した婆の血を継ぐ子どもを切り札とし育てた。森への生贄として育て、また、その身に森の意思を取り込むように教えた。彼ら不思議な術を用いて森の意思を拿捕し、それを操ることにより、再び森の加護を得ようと企てたのだ。それにより、少年の意思が森の意思と融合することにより、消えてしまったとしても、それは必要悪だと考えていた。
そして子どもは森へと捧げられた。人々は期待と不安に苛まれながら、子どもが森の意思を内包して戻って来るのを待っていた。だが、待てど暮らせど子どもは帰ってこなかった。
不安に堪えかねた村長がしびれを切らして家を飛び出し、信じられない光景をその目に焼き付けた。
「森が……森が燃えている…!」
眼前の森は中央から火が広がり、どんどん燃え広がっていった。火の勢いはすさまじく、とうてい人の力で消せるものではない。村長は虚脱感に襲われ、その場に崩れ落ちた。
森は3日3晩燃え盛り、跡形もなく全て消えた。森の加護も何もかも失った村は、次々と災厄に襲われ全てが廃墟と化した。もう100年以上昔の話である。
***
「――と、言うのがこの地に残されている話だよ」
女将の長い話を聞き終えた旅人は、言葉もなかった。彼女は全てが真実だと言った。だがその言葉は信じるには余りにも馬鹿馬鹿しい。しかし旅人が何よりも腑に落ちないのは、燃えて消えたという森のことだ。
「森は跡形もなく消えた。間違いないんだな?」
「当り前さ。あんたも北から来たのなら、荒れ果てた荒野を見ただろう?あそこは一帯が森だったんだ」
女将は平然と言ってのける。それ以外の真実など存在しないかのように。実際、彼女の世界においては今の話は全てが真実で、旅人が目にした広大な森こそフィクションなのだろう。
旅人は暫く考え込み、やがて荷物を手に立ちあがった。
「悪いけど、霧が晴れるまで、もう少しこの辺りを見て回ることにするよ」
「そうかい?ま、ここにいても退屈なだけだしね。と言っても荒れた大地ばかりだから楽しいものはないだろうけどさ」
旅人はもう一度女将に礼を言って、背を向けた。物思いにふけりながら歩いていて、ふと、宿泊施設の入り口で歩みを止め、未だテーブルを囲って談笑する商人たちに向き直った。
「なあ、ちょっと訊きたいんだけど」
「おう。なんだ?」
「ここに来る途中、小屋を見たか?」
小屋とは言わずもがな、旅人が目を覚ましたあの小屋のことを指していた。しかし商人たちは顔を見合わせると、二人揃って首を振る。
「いいや。俺たちが見たのは荒野と廃墟の村くらいだな」
「そうか。そうだよな」
旅人は頷き今度こそ宿泊施設を出た。門番にも先程女将に言ったのと同じような旨の話をし、再び僅かに緑が広がる大地に足を下ろす。目を眇めて地平線を見つめれば、そこには確かに件の小屋の姿がはっきりとあった。
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