気を失った少年を小屋の片隅にあるベッドに寝かしつけ、旅人自身は縁へと腰を下ろした。妙な気分である。あれほど何度も自分を殺せと無表情に言い続けた少年が、死にたくないと(恐らくは無意識で)口走ったのだ。まるで鎧に隠された本音を垣間見たような気分である。そして、この少年がまだ年端もゆかない人であると再確認させられた。
旅人がかつて大義名分を掲げて殺した人間の中には、この少年くらいの年頃の子どもも何人かいた。家々を襲撃した暗殺者を見て、怯える者もいたし、不思議そうな顔をする者もいた。間近に迫る死というものを理解できていないであろう子どもまで、旅人は殺した。あの子たちは皆、生きたいと願っていたはずだ。この子どもと同じように。
「……それでも、殺すしかなかった」
帝国が送った医師の見立てでは、村人全員が病に感染しており、潜伏期間のため明確な症状が表に現れない者もいたが、誰ひとりとして助かる見込みがなかった。だがそれはエゴイストの言い訳にすぎないと、旅人は理解している。
「ヒトは自らの為にヒトを殺す」
その声は唐突に、旅人の頭の中に響いた。目の前の少年は静かに寝息を立てたままだ。旅人はそのことに既視感を覚えた。これは初めて森に足を踏み入れたあの時の感覚に似ている。
「だ、れだ…!」
「我はかつてこの地に存在していたモノ。森に住まう全てのモノの意識の集合体」
「っ、森の意思か!」
旅人の脳裏に、南砦で聞いた話が蘇る。かつて森の意思はヒトにコンタクトを取って来たことがあるという。その時は依り代を使ったようだが、今は依り代になりそうなのは少年くらいしかいない。けれど少年に森の意思が乗り移ったようには見えない。ではなぜ、旅人には森の意思が感じ取れるのか。これも、ヒトの強い願いに森が反応することと関係しているのだろうか。
「ヒトよ。何故、契約を果たさぬ」
抑揚を欠いた声色に、旅人の背筋にぞくりと悪寒が走る。旅人は生唾を飲み込むと、宙を睨んだ。
「自分が死ぬためにこいつを殺すなんて冗談じゃない」
「成程それはお主の本音か」
その言い草はまるで、先程の旅人と少年の会話を聞いていたかのようだった。薄気味悪い上に気分まで悪い。旅人はますます顔をしかめる。
「ヒトよ。罪悪に濡れた魂よ。そなたにヒトの業を見せてやろう」
旅人が何かを言う前に、ぐにゃりと視界が歪んだ。森の中で意識を失ったあの時と同じ感覚だ。旅人は何が起きてもいいように身構えたが、視界のブレはすぐに収まり、信じられないことに旅人は彼の森の中に立っていた。
「どうなってやがる」
驚いて辺りを見渡す。何となくではあるが雰囲気が、水晶を見つけたあの広場に似ている気がする。
カサカサと、旅人のすぐ横の茂みが音を立てた。風邪が凪いだ程度の音ではない。旅人は警戒心を高め、体ごと茂みへと向き直り、息を潜めてそちらを睨みつける。
カサカサ。ガサガサ。幾度か揺れた後、茂みから現れたのはヒトだった。それもせいぜい十歳前後の子どもである。旅人は瞠目した。現れた少年は、先程まで言葉を交わしていたあの少年と瓜二つだったのだ。彼の見た目が十五、六であることを考えると、彼の幼少期の姿と言われても不思議はない――時が遡っていたりするのならば、の話だが。
「ヒトの子よ」
先程と同じ声は、しかし今度は大気を震わせた。目の前の少年がびくりと肩を震わせ、きょろきょろと不安げに視線を彷徨わせている。
「何故この地に踏み入ったのだ、ヒトの子よ」
旅人に対するよりは幾分も柔らかい声色だった。声の穏やかさに少し安心したのか、少年は少しだけ肩の力を抜いて、依然視線を彷徨わせたまま口を開いた。
「お、俺は、逃げてきたんだ!」
「逃げる?何からだ」
「か…かあさんの、サイコン相手から……」
少年の言葉は穏やかではない。『森の意思』もそれを感じ取ったのか、しばし沈黙した。そのことに不安を感じたのか、少年は手をぎゅっと握りしめてぽつりぽつりと事情を話し始めた。
曰く、彼の父親は数年前に病死し、この度母親が知らない男と再婚することになったらしい。仕事で家を空けていることが多い母親に比べ、義理の父親は家に帰って来るなり酒をかっくらい、酷く酔っ払っている時などは、幼い連れ子に手を上げることもあったらしい。
そして今日、母親と義理の父親が家を空けている間を見計らって、少年は家を抜けだした。行くあてがあったわけではない。ただ逃げ出したかったのだ。あわよくば、誰かの力を借りるなりなんなりして、あの男に復讐し、母親の目を覚まさせてやりたかった。
家の周辺以外行ったことがない少年は、知らぬうちに村を飛び出し、この森へと足を踏み入れてしまった。迷いに迷ってここへ辿りついたのだと、少年は言う。しかし実際は、森をうろうろとする子どもの姿を見かねた森の意思が彼をここへと導いたのである。少年が気にも留めない目の前の大樹。それは森の意思が宿る樹だった。
「逃げるのであれば逃がしてやろう」
「本当!?」
得体の知れぬ声に、されど少年は顔を輝かせた。肉親と呼べるものが母親以外にいない少年にとって、それは初めて差し伸べられた手だったのだ。
「ただし、二度とここへは戻れないだろう。それでもよいのか?」
森の意思は案に、母親を見捨てて行くのかと少年に訊ねたのだが、年端もいかない子どもがそんな他意を汲み取れるわけがなく、少年は二つ返事で頷いた。
「なればこの道を真っ直ぐ進め。決して振り返るな」
「うん!」
少年は大きく頷き、目の前の道ならぬ道を真っ直ぐ走り出した。
「あれが最初の生贄と呼ばれた少年だった」
森の意思が旅人へと語りかける。しかし言われずとも旅人はその事実を知っていた。今や旅人の意識は森の意思に同化していたのである。森の意思の考え、『それ』がこれから見せようとしているもの、それらの情報が旅人の頭の中へと流れ込んでくる。
再び視界がぐにゃりと歪んだ。次の瞬間、旅人の目の前には大きな籠があった。その籠を見るのは初めてだったが、森の意思を通して旅人はそれが何かを知った。
「…愚かなこと。とうとう声帯を潰したか」
森の意思は呆れていた。それはもう何度目になるかは分からぬヒトからの『贈り物』だった。最初にそれがヒトの手によって運び込まれた時、森の意思はただ驚いた。何故ヒトがヒトを箱に詰め、こんな場所に置いて行くのかと。更に驚いたのは彼らの格好である。皆一様に不思議な仮面を身につけ、黒いマントで体を覆っていた。まるで森に触れることを恐れるかのように。
箱の中にいるのが娘であることを森の意思はすぐに察した。だから彼女のやって来た村へ意識を飛ばし、ヒトの体を借りて問いかけたのだ。これは何なのかと。ヒトは森に救ってほしいと願った。そのための対価が娘なのだと言った。等価交換というものはどこぞの地で使われていた言葉だが、成程と森は理解した。ヒトは森にヒトを寄こし、それ故、森はヒトに祝福を与えるのだ。
森は箱に詰められた娘を取り込むことに決めた。薬か何かで眠らされているらしい娘は悲鳴ひとつあげることなく、森と同化した。そして森は娘から得た力によって村へ祝福を与えた。
それから何度も森は箱詰めのヒトを取り込んだ。ヒトの生命力により森は力を蓄え、そしてまた別のものも得ていた。それは知恵である。ヒトが持つ知恵は森にとって興味深かった。それから何年かはその知恵欲しさにヒトを取り込んでいると言っても過言ではなかった。だがしかし、知恵を身につけると共に森はヒトを理解していった。
ヒトによってもたらされるモノの中に、感情というモノがあった。これは森に住むどんな生き物も理解しえない、ヒトのみが持ち得るモノであった。それらのものを蓄積していく内に、森はどんどんヒトに近づいて行った。そうしてある時(否、それは徐々に訪れていた変化なのかもしれない)森は気付いたのである。ヒトの傲慢さに、そして自身の驕りに。
森はヒトに与えられるまま馳走を喰らった。それはヒトの子どもとまるで違いがなかった。だが今や最早森は『満腹』だったのだ。これ以上の力は必要なく、知恵はヒトより遥かに優れ、ヒトよりもヒトの感情をりかいすることができた。森は悔いていた。これほどまでの力が必要だったのかと。森の意思の中でも取り分けヒトに近い部分は嘆いた。あれほどまでヒトを犠牲にする必要があったのだろうかと。森は犠牲という観念を得ていたのである。
ヒトは森を神と呼んで崇める。だがしかし森は自身が神でないことを知っていた。それなのにヒトの言葉に踊らされ、気持ちのいい言葉に酔い、驕っていたのだ。そのことに気付いた時、森は哀しみを知った。その悲しみは今まで喰らったヒトの中にいつも流れる感情だった。
森は再びヒトのもとへ意識を飛ばした。そうしてヒトに言ったのである。これ以上の犠牲は必要がない、と。きっと人々は供物を与える苦痛から逃れ、悦ぶだろうと森は考えていた。だが、違った。ヒトは声高に叫んだのだ。
「そのようなことを仰らないでください!これまで以上に供物を差し上げます!!ですから我々を見捨てないでください」
見捨てるなどと森は一言も言っていない。それなのに村長は勝手に勘違いをし、それに煽られた人々が口々に助けを乞うてきた。だからただひとつだけ、森は訊ねた。
「そなたたちは、自らのために他者を犠牲にすることをよしとするのか」
「この世のものは皆、何某かの犠牲の上に生きております。その内のひとつが貴方様への供物なのです。それに生贄たちは皆、生贄になることを喜んでおります。自分の命ひとつで多くの人の命を護ることができるのですから」
村長の顔が輝くのを見た森の意思は、何も言わずその場から消えた。彼らにとって供物はひとつの慣習となってしまっていたのだ。そこに疑念を挟む者もいない。森は激しい怒りを感じると共に、ヒトに失望していた。
「生贄になることを喜んでおるなど…。我が内に取り込まれた魂は皆、死にたくないと叫んでおるというのに」
森は力を封じた。最早人々の声は森に届くことはなかった。
長き時を生きる森にとって、ヒトと時間の感覚はかけ離れていた。だがその森でも早いと感じる程頻繁に、ヒトは森に生贄を送るようになっていた。目の前の籠に詰められているヒトもそうだ。先までのヒトが皆、口々に叫び声を上げるものだから、とうとう声帯を潰してしまったらしい。それをヒトらしいと森は考えていた。
森は思った。自らは朽ちるべきなのかもしれないと。ここに森が在る限り、ヒトはヒトを生贄に捧げるだろう。森はヒトを喰らわなかった代わりに、森に住む生き物たちが贄を平らげるようになってしまった。そんな彼らに森の意思は静かに告げた。この森から逃げるようにと。
動物たちはその声に従った。彼らは皆分かっていたのだ。森の選んだ道が、その結果を。
森はヒトにより受け継がれた全てのモノを一カ所に集めて物質化した。それは成人程の大きさのある水晶へと変化した。森の意思はその水晶を破壊することで、自ら命を絶とうと考えたのである。森の力は今や膨大であり、しかし、その力を森は使うことを止めた。ヒトという生き物を犠牲にして力を得たことを後悔し、その力を疎ましく思ったのだ。故に森は、その力を消すことを選んだ。それが森の意思だけではなく森そのものの消滅に直結するだろうことを森は知っていた。だが、森はこのまま在り続けることを拒んだのだ。
そんな折だった。人々がまた生贄を運んできた。しかしその生贄は他の生贄とは違い上等な神輿に乗せて運ばれてきた。人々が立ち去った後、その生贄は――少年は、真っ直ぐ大樹を見上げた。森の意思にはその少年が、ヒトが最初の生贄と呼んだあの少年と同じ血を持つモノであるとすぐに分かった。最初と最後の生贄が同じ血筋のモノであるということは単なる偶然か、それとも必然なのか、森には分かりかねた。故に森は、その少年と最後に言葉を交わしてみようと思ったのだ。
「ヒトの子よ。何故此処に来た」
「…………お前の力を借りにきた」
ヒトにしては随分と尊大な態度だった。こんな風に高圧的に話し掛けられたのはいつ以来だろうかと考えて、森は今までそのような経験がなかったことに気付いた。そればかりか生贄のヒトと言葉を交わすこと自体初めてであるという事実に衝撃を受けた。森は思った。もしかしたら我々はもっとヒトと言葉を交わすべきだったのではないかと。だから森はもっとこの少年と言葉を交わそうと決めた。
「我の力を借りて如何する」
「今村に流行っている病を治す」
「どうやって」
「お前の力をこの身に宿して」
「我をお前如き器に収めると言うのか?」
少年は頷いた。迷いがない。そればかりか澄んだ瞳で真っ直ぐ大樹を見上げるではないか。森は驚いた。これほどまで強い意思を今まで感じたことがない。
「その身に我を宿せば、お前の魂は消滅するだろう。それはお前自身の死と同義。それでもお前はその身を我に差し出すと言うのか?」
「それが俺の使命だ」
「使命?使命、と。お前は自らが死ぬことを使命であると言うのか」
「俺はお前をこの身に宿すために生まれてきた。そうするために育てられてきた」
無機質な少年の声に森はこの少年に憐みを感じた。彼もまたヒトの業に呑まれた犠牲者であると思ったのである。此処に来る者は皆そうだ。皆、ヒトのための礎となるべく連れて来られ、森に喰われた。魂が死にたくないと慟哭するにも関わらず。
この少年もきっと同じであるはずなのに、最初から諦めてしまっている。彼はまるで生きていないようだった。だから森の意思はある決断をした。それがヒトでいうところのエゴイズムであると知りながら。
「其処にある水晶に触れよ、ヒトの子よ」
訝しそうに眉を寄せつつも、少年はその言葉に従い、踵を返し少し離れた場所にあった水晶へと向かった。自身の身の丈よりも大きな水晶を見上げた少年は、少し躊躇したものの水晶に触れる。
「!!」
少年が水晶に触れた途端、水晶から淡い光が放たれた。光は見る見るうちに少年の体を包み込み、いっそう強く光輝いた。そして、光が消えた時、そこにはただ水晶だけが残った。少年をその身の内に飲みこんだ水晶が。
そうして森の意思は、己の身に火を放った。
何日もかけて広大な森は火の海に呑まれた。どれだけ人が鎮火しようと努力しても、その全てをあざ笑うかのように炎の波が森を包んだ。
全てが燃えて無くなった場所に、ぽつんと水晶だけが残った。後は水晶へと移った力を少しずつ消していけば森は完全なる死へと至る。森はゆっくりと、しかし着実に力を削っていった。かつて森が在った地へ訪れる者たちへ契約を持ちかけ、森の化身となったヒトガタの死と、来訪者の願いを叶えることによって、徐々に森は力を失っていったのだ。
今となって漸く、森はその力の殆どを失い、森は残りの力を憐れな子どもの為に使うことを決めた。森はその少年の名前を知らなかったし、長い年月の内に少年の中から彼自身の記憶も失われていた。だから森は少年に名前を付けた。
刹那。
長い時を生きた森にとって、ヒトとは刹那の時を生きる儚い存在のように思えたのだ。
**
旅人が目を開くと、そこは小屋の中だった。まるで長い夢を見ていたような気分だった。体は肉体を酷使した時のような疲労感に襲われ、精神は虚脱感に満ちていた。
旅人は目の前の少年を見下ろす。森の意思と混じり合った旅人には今や、森の意思の『本当の願い』が感じ取れた。だが旅人はそれを果たすために、自分が何をすればいいのか分からなかった。
だから旅人は少しだけ口を開いて、言葉を綴った。名前を呼んだ。
「刹那」
少年の睫毛がふるりと震え、ゆったりと瞼が持ち上がる。虚ろな赤い瞳が、けれど真っ直ぐに、旅人を見据えていた。
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