草木も寝静まる刻限。朧月の下、はぁと熱い吐息を零す。平助君ったらいろっぽーい、なんて場違いな声を黙殺して汗でべっとりとへばりつく髪をかき上げる。もうひとつ重い深呼吸をしたら溜まりにたまった疲れがどっと押し寄せてきて、背にしていた幹に更に寄りかかる。
「知ってるか、兵助。この世に完全なる善意は存在しない」
先程とは少し声色の違う言葉に、視線だけで応じる。
「善意の裏には何らかの思惑が存在し、往々にして無意識下の自己陶酔が混じる。誰かのために何かをする自分が好きということさ」
「随分と根性のねじ曲がった考え方だな」
「ああ。私の考えは歪んでいるよ。何時だってな」
見上げる月のぼやけた明かりの眩しさに目を細めつつ、見下ろした手を染める紅に小さく舌打ちをした。拳を握りしめる。
「それは違うだろう。少なくとも今のお前の面は不破雷蔵のものだ」
「…ふむ。成程確かにこの面では似合わない言葉だったか」
ふわりとすぐ近くで揺れた風に視線を少し上げれば、見慣れた自分の顔がそこにあった。
「何だそれは。嫌味か」
「いやいや。私は全然全くこれっぽっちもお前が歪んでいるなどとは言っていないぞ。豆腐まみれである意味崩壊しているだろう、とは思っているがな」
「それは豆腐に対する侮辱か。いいだろう、三郎。お前の遺言確かに聞き届けた。今すぐそこで腹を切れ。介錯は任せろ」
「お前の優先順位は自分よりも豆腐が上なのか!?」
「何を今更」
当然のことを。
やや憤慨して睨みつければ、慌てたように男は面を元に戻す。友人の借り物に。
手を腰にさげていた刀の柄から離し、再び樹の根元へと座りなおす。
「それで、結局お前は何が言いたかったんだ」
「……いや何、暇だったもので少し実地試験のことを思い出していただけさ」
実地試験。その言葉は忘れかけていた、ぐっしょりと濡れた手の感触を思い出させた。間の悪い男である。
再び手に視線を落とす。手を覆う布はどっぷりと血を吸い赤黒く変色している。こういう時、しばしば己の得物を後悔する。刀や、それこそ火器の類であったならこんな風に相手の血に濡れることもそうあるまいに。
「試験の最中、偶々大怪我を負っている男を見つけた。どうにも助かりそうにはないが、細く短く生き永らえそうだったので、一思いにと止めを刺した。この善意はある種の自己陶酔なのだろうと思った訳だ」
隣の男は自分以上に人を殺すことに慣れていた。
「それを見た味方が私を人でなしだと罵るものだから、如何したものかと思ったよ。こいつは忍者には向いていないと思ったら、流れ弾に手傷を負わされていたことに気付いた。果たして奴は己の甘さが命取りになるということを学んでいたのだろうか」
恐らく別の班の輩だろう。さて味方には誰がいただろうかと思い返し、思い出せなかった。そもそもあまり期待できるような面子ではなかったから、覚える気もなかったのだ。それだけ思い出した。
「敵に情けをくれてやるお前の方が甘いだろう」
「……まぁ、そうとも言えるな。しかしな、止めを刺したくもなるというものだよ、兵助」
「…………」
「その男はあまりにもお前に似ていたんだ」
恐らくそれが雷蔵であったなら、戸惑って殺せなかっただろう。他の輩だったなら、見ないふりをしたのだろう。
「お前の面であまりにも必死に殺してくれと乞われたから、私は迷いなく殺したんだ」
どういう対応をすべきなのだろうかと、少し悩んだ。有難うと言うのは場違いであるし。
「お前は、」
「ん?」
「私に乞われたら、如何する?」
濡れた手に、乾いた手が触れる。朧な光を遮って視線を合わせてくる男は能面のような無表情だった。一体、どんな答えを望んでいるのだろうか、この男は。そして出した答えに納得するのだろうか。どちらでも構わない。其処には意味がない。
「殺さない。そんな頼みを聞いてやる義理はない」
「…………」
「私に殺せと乞うような鉢屋三郎を、私は知らない。知らない人間の頼みは聞かない」
「……成程。お前らしい答えだよ」
何が可笑しいのか男はくつくつと喉を鳴らして笑った。乾いた唇に少し濡れた感触が落ちる。じわじわと伝わる熱に今ばかりは吐き気がした。
もし万が一、この男が殺してくれと乞うような時が来ても、自分は決してその目の前にはいないだろという確信があった。
「(だから、私に殺せと乞うような鉢屋三郎を、私は知らない)」
PR