何で泣いているんだ、と彼は言った。何がそんなに哀しいんだ。お前が泣くなんて、何か変だな。そんな言葉を並びたてた。そして自分は、自分が泣いていることにさえ気付かなかった。ただ、決して踏み越えることのできないボーダーラインを引きちぎりたくて仕方がなかった。
スナイパーである彼は手指を冷やさないようになのか何なのか、ミッション外でも常にグローブをつけている。それこそ水を触る時か、シャワーを浴びる時以外、外したのを見たことがない。まるで、他人を拒絶しているように見える、とある人が淋しそうに言っていた。
彼はよく、触れてきた。頭を撫でたり、肩を叩いたり、背を押したり。けれど彼の温度を感じたことは一度も無かった。厚いグローブが、相手の熱も己の熱をも遮断して、決して触れあっているとは思えなかった。
好きだと言われたことがあったし、恐らく恋人同士がするであろう行為をしたこともあった。それでも一度だって、直に触れられることはなかった。
一度、あまりにもそれが苛立たしくて、隙を突いて奪い取ってやろうと思ったことがある。完璧な死角から奇襲をかけたのに、ミッションを成功させることはできなかった。がら空きの背中にタックルを喰らわせることはできても、その手からグローブをはがすことはできなかった。まるで接着剤で貼りついてしまっているかのように。まるでそれさえも彼の体の一部であるかのように。
貴方は他人を受け入れるふりをして、拒絶しているのですね。そう、仲間の1人が言った。とても哀しそうに言った。落ちた沈黙にその仲間は踵を返し部屋を出て行き、重い空気の中で2人だけが取り残された。
彼はどこか冷めた瞳で、己の手を見下ろしていた。
「何故、外さない」
直接的に訊いたのは、これが初めてだったかもしれない。以前のミッション時に何でこんなことをするのかと笑いながら問い詰められたが、適当にはぐらかしたから。本当にこれが初めての問いかけだったのかもしれない。
「手を、冷やすわけにはいかないだろ」
予想通りの言葉が返された。違う。そんな建前が聞きたいわけじゃない。
「あいつの言う通りじゃないのか」
「……ティエリアの?」
グローブから視線を上げて、振り返った彼の瞳はわずかながら戸惑いが浮かんでいた。その瞳に揺さぶられるように、心の深いところで何かが燻ぶる。
「お前は拒絶しているんじゃないのか。あいつを、仲間を、そして、俺を」
言葉を重ねるたびに、酷く痛む場所があった。鳩尾の辺りがきゅうとなる。薄く開かれた唇から、何かがこぼれ落ちることを恐れるように。酷く、酷く、痛んで、違和感を生んだ。
「………………別に、そんなつもりはないよ」
笑った。この期に及んで、彼は笑った。薄っぺらな、吐き気がするような笑み。込み上げてきた怒りにまかせ、素早く足払いをかけて長身を床に叩きつける、その上に馬乗りになって片手を床に縫いとめ、片手を、彼の利き手を掴んだ。
「…っ、はっ……は……」
呼吸が荒い。何故だ。別に激しい運動をしたわけじゃない。これくらいのこと、軽くやってのけられるはずなのに。息苦しい。
「刹那」
呼ぶ、声の、冷たさに、呼吸はもっと荒くなって、どこかはもっと痛くなった。それでも退きたくなくて、負けたくなくて、彼の利き手の人差し指に歯を立てた。力を込めて引き上げれば、呆気無くグローブは外れる。
刹那、と先程の彼の声が頭の中に響いて、動きを止める。動けない。動けない。動けない。どうして。
この手からグローブをはがすことに、いったい何の目的があったのだろう。今更になって自問する。
呼吸が荒い。耳の中で鼓動が高鳴る。痛い。痛い。痛い。心臓が痛い。胸が痛い。心が痛い。
彼が頑なにつけ続けるグローブをはがすことに意義があったわけじゃない。その手に、裸の手に、触れたかった。触れられたかった。拒絶されたくなかった。他の人たちと同じように、線を引かれたくなかった。彼の中の特別で在りたかった。自分の中で彼がそうであるように、そう、させられたように。触れられたくない領域の中に踏み込んで、蹂躙して、存在を植えつけたかった。そんなこと、できるはずがないのに。これを剥がしたって結局は、彼が自らの意思で踏み越えない限り、線は消えずにそこに横たわるのに。
「………ごめんな」
数々の言葉を並びたてた後に、彼はぽつりとそう言った。もう、自由に動けるはずなのにそうしなくて、押し倒された格好のまま、ガラス玉のような瞳でただこちらを見上げていた。
彼はもう二度と、その線の中に誰かを入れることはないのだろう。
「臆病者」
「ああ」
「臆病者臆病者臆病者」
何度も何度も罵った。呪いの言葉のように繰り返した。
自分とて、受け入れてほしいと言ったことは一度だってないのに。
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昔書いた、『裸のてのひら』とは対になる話。
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