だれもはいってはいけません、と白い悪魔はいいました。
かれはびょうきなのです、悪魔の手下はいいました。
だからだれもかれにちかづいてはいけないのです。
つめたいつめたいガラスにあたまをこつりとつけて、かれのおんどをさがします。
つめたいつめたいガラスは魔法のようにきえることもなく、じんわりとあたたかくなってくることもありません。
つめたくむじょうなガラスはただそこにあって、僕とかれをへだてるのです。
かれはなにもわるいことなどしていません。
(でもそんないいかたをすると、きっとかれはおこるでしょうが)
かれはただたたかったのです。
じぶんの理想のために。
じぶんの夢のために。
じぶんが未来へあるいていくために。
かれは涙をながし、血をながし、それでもたたかったのです。
センソウコンゼツのために、たたかったのです。
かれはたくさんの血をながしました。
たくさんたくさんきずついて、とうとうこの悪魔の館にとじこめられてしまいました。
かれはたくさんきずついたけれど、せかいにヘイワなんておとずれませんでした。
それでもかれがのぞんだせかいのために、たたかうときめたのは僕でした。
きょうもまた白い悪魔はいいました。
だめです。まだです。はいってはいけません。
僕はとてもつらくて、だけどどうしてつらいのかはわかりません。
ただ、白い悪魔のことばにしたがって、かれのもとへいくことはせず、いつものようにあたまをこつんとガラスにあてました。
するとどうしたことでしょう。
僕のりょうめからはほろほろほろほろとたくさんの涙がこぼれおちてきたのです。
ぽろぽろぽろぽろおちた涙はガラスをいっぱいぬらしました。
ぽろぽろぽろぽろおちた涙はゆかをいっぱいぬらしました。
そでもかれにはとどきません。
僕が涙をおとすことはいままでほとんどありませんでした。
りょうてのゆびでたりるほどのかず。
そのうちのひとつをうっかりかれにみられてしまったことがありました。
そのときかれは優しく涙をぬぐってくれました。
そして僕のあたまをぽんぽんとなでて笑いました。
だいじょうぶ。
だいじょうぶだよ。
なくことはないよ。
俺はここにいるから。
おまえのそばにいるから。
またおまえがないてしまうことがあっても、また俺が涙をぬぐってあげるから。
かれはそういって約束をしたのです。
けれど、そのあとしばらくしてからながした涙をかれがぬぐってくれることはありませんでした。
そうしていまも、この涙をかれがぬぐってくれることはないのです。
そのことがまたかなしくて、僕のこころをぎゅっとしめつけます。
そのことがまたかなしくて、僕のしかいをゆがめるのです。
そんなときでした。
それはほんとうにすこしのへんかでした。
かれのくちびるがうごいたのです。
かれがすこしでもうごくことは絶望的だと悪魔はいったのに。
僕はとてもおどろきました。
けれど僕はたしかにみたのです。
かれのくちびるがうごくのをみたのです。
かれが僕の名前をよぶのをみたのです。
僕はふしぎと笑っていました。
眼のはしからはぽとんとさいごの涙がながれました。
たたかうよ、と僕はいいました。
おまえのぶんもオレがたたかうから。
だからいまはそこでやすんでいろ。
おまえがめざめたあと、もうにどとおまえのてが罪でぬれることがないように。
オレがおまえのぶんもたたかうから。
だからおまえはそれまでねていろ。
僕はかれにいいました。
僕はかれに誓いました。
そうして僕は白いへやをあとにしました。
僕はもうふりかえりませんでした。
そうして、僕はもうにどとそのばしょをおとずれることはありませんでした。
かれへの誓いをまもるために。
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彼が目覚めたのは、彼が眠ってから実に10年後のことだった。覚醒後、彼は医者が驚くほどのスピードで回復へと向かい、リハビリも終え今日漸く退院することが出来た。
彼は空を仰いだ。彼が眠りにつく前から一見何にも変わっていないように見える青空。けれどその実、彼にとっては信じられない程多くの変化があり、その変化の中を彼は生きなければならないのだ。世界の変化と同時に彼は看護師から、彼のことをずっと見舞っていた青年についての話を聞いた。ある時を境に来なくなってしまった青年に、彼が目覚めたと連絡を入れたかったがどうやって連絡すればいいのか分からないと、看護師は困り顔だった。
彼にはそれが誰のことを指すのか分かっていたし、彼が病室に来なくなったことがどういうことかも一応分かったつもりでいた。だから気にしなくていいと、笑って言った。
「…刹那」
彼は青年の名を呼んだ。もう二度と会えないのかもしれない。それでもきっと一生愛しく思う人の名前を彼は自分の心の中に閉じ込めた。
そうして彼は、変わった世界の中を1人、歩き始めた。
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