たとえば雨の日などは、思い出す。赤い傘片手に幼子の手を引く細い指。
たとえば暑い日などは思い出す。汗をだらだら流す幼子に笑いながら涼を取る姿。
たとえば晴れの日などは思い出す。太陽に手をかざして眩しそうに見上げる彼を、見上げる自分を。
思えば今まで生きてきた大部分の時間を彼と共に過ごした。失礼極まりない挨拶をして、自分を大きく見せようとしたこともあるし、時には剣を交えたこともあった。それでもお互いに、比較的良好な関係を気付いていたように思う。しかし、一度入った大きな亀裂が全ての災いの元。裏切りと言われてもしようのない行為。それから幾度となく戦火は上がり、この身体が動けなくなる頃、大日本帝国は敗北と言う形で、終焉を迎える。
「私は死なないのですか」
「死にたいのかい」
「私は敗者です。勝者の言葉になら何なりと従いましょう」
歪められる表情は、かつての同盟国のそれと少し似ていて――何故か戻せない時間の流れを感じた。
「君が攻め込んだ国は当然、君の在り方を変えてほしいと願う。君の上司も制度も何もかも変えなければならないかもしれない」
それは多かれ少なかれ、この身の破滅を意味するのかもしれない。
「お好きなように」
我が事なのに、不自然なくらいに冷めた声だった。二度毒を受けた後の無条件降伏は、この身から以前のような強い情を削ぎ取った。
「……昔のように戻ってほしいと願っている奴もいる」
「昔? 欧米列強に怯え、媚びへつらうしかないあの頃に戻れというのですか? 御冗談を。そんなことならば、いっそ腹を切った方がマシです。いいですか。Mr.ジョーンズ。昔に戻るということは、この戦で失ったもの全てが無に帰すということなのですよ」
「たとえ、それが間違った進歩でも?」
「……私は、確かに間違った道を選んだのでしょう。それでも、何度やりなおした所で私は、この道以外辿る事は出来ない」
彼は悲しげに眉を下げて、ゆっくりと瞬きをひとつした。そして、こちらへと背を向ける。
「これからのことは決定し次第伝える」
小さな音を立てて、病室の扉が閉められる。取り残された部屋で、ひとつ息を零す。漸く訪れた静寂に抱かれ瞳を閉じれば、瞼の裏に浮かんだ面影に、心が軋んだ。
その病室を訪れたのは初めてだった。自身の体調も最悪だったが、それ以上に、どんな顔をして接すればいいのか全く分からなかったのだ。こちらに非はさして無いのだから堂々としていればいいのかもしれない。だからこれは全くの、私情だ。
意を決して扉を開けるも、白いシーツに溶け込むように横たわった彼の両目はかたく閉じられており、正直――ホッとした。足音をたてぬようにそっと近づく。何十日ぶりかに、ちゃんとその小柄な姿を見下ろす。
かつて弟同然に接した存在。綺麗な身体の至る所に包帯が巻かれており、細い管も幾本か繋がれている。そう簡単には治らない。そうなるまでに痛めつけたと、苦々しげに言った相手を我が身顧みず全力で殴りつけたのも、そう昔の話ではない。そして、自称ヒーローは特に怒るでもなく、驚くほど醒めた声色で、どうして君が怒るのかと、問うてきた。正直、衝動に突き動かされただけ、ということもあり、言葉に詰まり目をそらした。
そしておそらくここに、その答えがある。
「……
哥哥」
ぽとりと落ちた声。それは紛れもなく目の前の彼が発した声。白い顔に視線を向ければ、きつく閉じられたまぶたの端からつっと涙がこぼれ落ちた。
どれだけ乞うて強請っても、終ぞ呼ばれることのなかった呼称。嬉しいやら切ないやら、いろんな感情がぐるぐると渦巻いて、吐息に混じってそっと吐き出す。
「馬鹿者が」
頬を伝う滴を指でそっと拭って、まなじりに軽く口づけを落とす。昔、必死に涙をこらえる子供をあやす様に同じことをしてやれば、この子は何ともぶさいくな顔で泣いたものだ。その様さえ、愛しくて仕方がなかった。
最後にこんな風に接したのは何時だっただろうか。きっとそれは、思い出すには遠すぎる日々の中に。
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