ぬくもりを、一度知ったら戻れなくなる。失うのが恐くなる。だから自らの手でそれを封じた。もしも、この手が再びぬくもりを知ってしまったら、手に焼きついたぬくもりが邪魔になって、トリガーを引けなくなってしまうような気がしたから。誰かにとってのぬくもりを、自分が今度は奪うのだということを、少なくとも理解はしていた。
だけど、泣くのだ。大切にしたい子供が泣くのだ。何で泣くのかと優しく訊ねてみても、軽くちゃかしてみても、あの子は一向に答えようとしなかった。それなのに、まるで涙が流れていることなど気付いていないかのように、ほろほろ、ほろほろと無表情に声も泣く、涙を流し続けたのだ。嗚呼きっと、この子をこんな風に泣かせてしまったのは自分のせいなのだと、気付いた。けれど気付いたところで何もしてやれるわけがなかった。他人を拒絶している自分が、この子に何をしてやれるだろう。
やわらかく、けれど強めに噛みつかれた指の感覚は、なかなか抜けなかった。消えなかった。それはとても困ることだった。何故ならあの子が噛みついたのはトリガーにかける指で、この指が動かないことには無駄弾ひとつ撃ちだすことはできないのだから。
訓練ならまだしも、それは実践だった。幸いにも、一度撃てなかったことが何か大事に繋がることはなかったが、それはミッション内での話。心には重いものが圧し掛かった。ここで止まってはいけない。立ち止まってしまったら、いったい今まで何の為に誰かの大切な人を殺し続けた来たのか分からなくなってしまう。立ち止まれなかった。けれど、進みづらかった。
彼が部屋に泊っていった日。甘い空気なんて皆無なのに(そもそもこの子供にムードだ何だ期待する方が無理だ)、抱き合って眠った日。いつものように、狭いベッドの上で2人眠っていたのに、真夜中を過ぎたあたりで目が覚めた。そうしてふと隣を見たら、あの日のように、その子はほろほろと、声もなく泣いていたのだ。この子の涙を見るのは、これが2回目だった。
感情さえ滅多に表に出さない人間が、2回も泣いている姿を見たら、よっぽど何かが哀しいのだろうと嫌でも分かる。そしてその原因は自分にあるだろうことも、分かる。分からない程鈍くはなかった。たとえばこれが、アレルヤのように鈍感だったらよかったのだろうか。それとも、ティエリアのように冷徹であったらよかったのだろうか。そのどちらでもない、ロックオンはどうすればいいのか分からず困り切って、そっと少年の涙を拭ってやった。そして、目にとまった。
嗚呼、そうだ。これが彼を悲しませるのだと、気付いて、ぎりっと奥歯を鳴らした。
臆病者だと罵られて、否定もせずにただ肯定した。自覚はあった。触れるのが恐いなんて、失うのが恐いなんて、臆病者以外の何者でもない。少し前ならば、皆お前みたいに強くないんだとでも言っただろうか。今は言えない。この子の涙を見たら、言えなくなった。
グローブを外すと外気に触れた皮膚が少し寒気を感じる。快適に空調が効いた部屋であっても、空気は冷たく感じる。一度手を握りしめてみる。自分の指の感触。熱。
一度じっと自分の指を見下ろして、暗がりだというのに手相さえ見えるのではないかと思うくらい、穴が空くくらいじっと見下ろして、ようやく持ちあげた。そして、触れた。涙の跡が残る頬に触れた。やわらかい、とか。あたたかい、とか。そんな、何でもないような感想が頭のなかにぽつぽつと浮かんだ。
まるでぐずる子供をあやすように撫でてみる。指に伝わる感触。温度。幸福感。
そう。ニール・ディランディはどうしようもなく満たされていた。嬉しかったのだ。再び誰かのぬくもりに触れられたことが、あろうことかそれを拒絶していた張本人が喜んだのだ。
あったかい。ほっとする。生きている。傍にいる。感じる。深いところで感じる。ぬくもりを感じる。
「……っ」
うっかり込み上げてきたものを呑みこんで、かき消すように首を振る。ダメだ。泣いてはいけない。この子を拒絶し泣かせた自分が、被害者面して泣いてはいけない。そんな権利はない。
再びグローブをはめた。厚手のグローブの下で、まだ彼のぬくもりがてのひらに貼りついていた。予想以上にそれは厄介なものだった。
これ以上触れていたら、離せなくなる。放れられなくなる。進めなくなる。やっと、本当にやっと手に入れることができたぬくもりが忘れられなくなって、どうしようもなくなってしまう。だから、だから、もう一度ちゃんと触れるのは全てが終わった後に。彼の前で、こんなもの引き裂いて、そして、受け入れよう。すべて。
だからそれまでは赦してくれ、と、まるで懺悔するように、そっと少年の目尻に唇を寄せる。そこはもう乾いていた。
この手でちゃんと触れたなら、この子はどんな顔をするのだろう。その時は気障ったらしく指輪でも贈ってみせようか。その身を一生束縛するために。年甲斐もなくはしゃぐ自分を笑いながら、穏やかな寝息を立てる子供の体を抱き寄せた。
そんな日を夢見た。永遠に来ない日を、夢見た。
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2個下のより明るい話を目指した結果、蛇足部分を考慮すると、大変な鬱になりました。
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